チワワちゃんとかわったかたちの“遺志”

 来年公開の映画『チワワちゃん』にとても期待している。予告を見る限り、岡崎京子先生の作品の映画化としては最良の出来になっているような気がする。主演はこのところほぼ外れなしの門脇麦さんだし、玉城ティナさんは初めて知った時から岡崎作品で描かれる美女/美少女にぴったりだと勝手に思っていたし、1991年生まれの二宮健監督が今この作品を映画化するというのも魅力的だ。

 原作の『チワワちゃん』が発表されたのは1994年(作品を収録した同題の短篇集の刊行は1996年)。ちょうど私が隠れオリーブ少年だった頃であるし、1995年を目前に、既に蔓延りはじめていた終末思想に毒されて小学校低学年ながら秘かに早すぎる終活をしていた時期でもある。発売されたばかりの『FINAL FANTASYⅥ』も、クリアそっちのけで世界崩壊後のフィールドを延々と歩き回ったりしていた。たぶん、どうかしていたのだろう。

 幸いなのかどうかわからないが、2018年も終わろうとする現在まで世界は終わらずに済んでいるし、私もチワワちゃんのようにバラバラにされてしまうことはなかった。まあ、仮にバラバラにされたところで、貧弱なもやし妖怪の私に“チワワちゃんのように”という形容は相応しくなく、“びっこのポーのように手足バラバラにされて並べられる”のほうがまだお似合いだろう(@友部正人「びっこのポーの最後」)。その間のあれやこれやを思い返してみれば、いっそ世界が終わるなりバラバラにされるなりしたほうが良かったのではないかと感じなくもないのだけれど、おかげ様でこの分だと映画『チワワちゃん』を観にいくことも叶いそうだ。

 しかし、日に日に岡崎京子というよりはつげ義春的な雰囲気を色濃くまといつつある私には、その辺で拾った石を売りはじめるのも時間の問題だと指摘する声も聞こえてくる。そうなれば映画館へ足を運んだり、DVDやブルーレイに手を出したりする余裕もなくなってしまう。世界は終わらずとも、私の人間としての尊厳が終わってしまう危険性は充分にある。誰のせいかと問われれば、おそらく私のせいなのだろうし、特に小学校低学年で終活なんぞ始めてしまったことの影響は大きそうだ。だが、そうさせてしまった時代背景にだって数パーセントくらいの責任はあるのではありませんかと小さめの声で主張するくらいの権利はまだ私にもあるはずなので、そんな時代=平成の終わりに公開される映画『チワワちゃん』を観賞する権利もついでに与えてくれれば幸いなのだが、神やお上がそれを許してくれるかどうかはまだ定かでない。


1/18(金)公開 映画『チワワちゃん』予告編

 

チワワちゃん (あすかコミックスDX)

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無能の人・日の戯れ (新潮文庫)

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かわったかたちのいし

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1976

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