崩れつちまつた悲しみに

 溶けかかった汚ねえ雪だるまを見かけると「いっそひと思いにラクにしてやったほうが……」などと考えてしまう、人間性に大いに問題があると考えられる美月雨竜氏ではあるが、崩れかかった汚ねえ家屋というものは、なんだか壊してしまうのがもったいないと感じてしまう。自分とは無関係の建物でも、妙な郷愁を感じてしまうからで、いわゆる廃墟好きとも通じる感覚なのだろう(実際、廃墟も好きであるし)。ゆえに、この点だけ見れば、美月雨竜氏の人格に「大きな問題」があると断定してしまうことに、まだ議論の余地があると指摘する人の声も、そう少なくはないのではないかと思う。

 しかし、崩れかかった汚ねえ家屋というものは、ほったらかしにしておくと危険なものでもあるし、崩れかかっていなくとも、逃走中の犯罪者の隠れ家などになったりする可能性もあり、「郷愁」という一言で解体を先延ばしにし続けるのも、それはそれで問題のある考え方なのだろう。こうなると、先程の議論の余地ありとする声も、その数を減らしていってしまうかもしれない。

 だが、人格に多少の問題がある美月雨竜氏ではあるが、いくら郷愁を感じていても、上記したような事情から解体の必要性に迫られている家屋を「自分が気に入っているから」という理由だけで、ことさら解体反対の運動に力をいれることなどしない。そのくらいの理性はあると、自分でも信じたい。ただし、壊される前に撮れるだけの写真を残しておこうとは思う。

 別に特に思い入れの深い建物が解体間近であるというわけでもないのだけれど、廃れゆく様が痛々しい近くの町を眺めていると、あれこれ考えてしまうのだった。