時代の先端についた目は時代遅れの姿も捉え続ける

 Google ストリートビューで我が家近辺の画像を眺めると、映り込んでいる資料庫の窓が整理前の状態なので、どこの誰が気にするわけでもないはずなのに、妙な歯痒さを感じてしまう。最新の画像に更新されるのを心待ちにしている。

 日本映画学校に通っていた頃の私が住んでいたアパートはすでに取り壊されているのだが、ストリートビューの画像も取り壊された後のもので、その姿を確認することはできない。特に思い出深いわけではないから構わないのだが、かつて住んでいた場所を確認している気分にはあまりなれない。かわりに多少関わりのあった他の学生が住んでいた場所を覗いてみたりしている。

 私が映画学校に通っていたのは2006年の4月から2009年の3月までだが、世間では個人情報を外に漏らさないよう意識することが既に常識化していたように思うのだが、どうにもあの学校はそのへんの危機意識が低かったとみえて、ゼミの連絡網等で実家の住所まで記載されていたはずで、今でもその気になれば同期生たちの生まれ育った土地の風景を自宅のパソコンの前に座ったまま確認することも可能なわけである。なんとも気持ち良くない話であると同時に、やはり我が家近辺の画像も整理後の状態にはやく更新してほしいものである。

 そういえば、小谷野敦さんがブログで「今ではグーグル・ストリートビューで、世界中のあちこちの場所の映像を見ることができるから、紀行文というものも自ずと変質していかざるをえないだろう」と書いていたけれど、いわゆるお上品なだけの紀行文の読者層というのは、いまだにストリートビューを利用できない者が多いのではないかという疑いを私は持っていて、だとすると紀行文の歴史に「ストリートビュー以後」という時代が訪れるには結構な時間がかかってしまうのではないかとも思う。

 映画学校時代のことを思い出すと、2000年代どころか90年代にすら追いついていないような感覚の人間もいたような気がするので、そんな人たちが「ストリートビュー以後」なる時代を認識できるかどうかは非常に疑わしい。もっとも、すんなりと紀行文がストリートビュー以後の時代へとシフトした場合、時代についていけない読者層は「最近の紀行文には心がない」だのといったありきたりな批判を口にし始めるだけのような気もするので、そんな方々のことをいちいち考慮する必要すらないのかもしれない。