厚かましい厚意

 「他人からもらったものを売る者よりは自分の金で買ったものを転売する者のほうがわかる」とする人がいたのだが、非常に気持ちの悪い倫理観だと感じる。他人の厚意を無下にしてはいけない、といったことなのかもしれないが、厚意や善意というのは、あくまでする側が「思いやっている」「善の意としている」というだけのことであって、実際に良い行いとなっているかどうかは関係ない。善意の空回りや、勘違いの善意・厚意、正義の暴走といった話は現実でもフィクションの世界でも数多く存在してきたし、近年は特に目立った問題として捉えられているような気もする。そんななかで、このような倫理観をおおっぴらに口にできる人間の感覚のほうが私にはわからないし、わかりたくもない。

 それにしても、裁判員制度が導入されて久しいが、SNSなどで偏った倫理観の持主の発言を目にするたびに、法を犯すことのリスクというものを感じ、寒気すら覚える。今ある法のすべてが適切なものであるかどうかという問題は別として、上記のような偏った倫理観の持主によって裁かれてしまう可能性があるというのは、実におそろしいことだと思う。あまりに偏見の強かったりする者は、たとえ候補に挙がっても選任手続の段階で外されるのだろうが、はたして危い倫理観の持主すべてを見抜けるものかどうか。いや、大抵の人間は何かしらの偏見は持っているはずで、それをどれだけ理性で抑えることができるかのほうが問題なのだろうけれど、そんな理性の持主というのもまた多いとは思えず、実際に自分が法を犯してしまったのならまだしも、冤罪だった場合のことを考えると、全世界を道連れに自爆したい気分になってもおかしくない。なにしろ、自分だけが死んでも、妙な正義感の持主たちによって死後もなお自分が非難され続けることは防げないのである。

 と、こんなふうに今日もまた世界に絶望するようなことを考え、『幼年期の終り』のジャン・ロドリックスに思いを馳せる。

幼年期の終り (ハヤカワ文庫 SF (341))

幼年期の終り (ハヤカワ文庫 SF (341))