『この西瓜ころがし野郎』(6)

 川魚の急坂から西瓜ころがしの西瓜を蹴落とすことは、つまりは鐘爺に飼われていた哀れな老犬を弔うことでもあり、もっとも弔うというのは多分に弔う側の気持ちを満足させるものであり、それは和尚もかねてから説いている話で、大事なのは弔う側がそれを忘れないことであり、鐘爺に関して言えば鐘爺を憎く思う気持ちは、この土地に住む者であれば誰しもが忘れ得ぬことであり、さすがに弔いとは犬を思ってのことで崇高な行いなのだなどと述べる者はおそらく西瓜ころがしくらいしかおらず、そもそも西瓜ころがしは形だけの弔いすらやっていないからこその西瓜ころがしであり、そろそろ雑貨屋へ向かうことにしなければ西日が射してしまうし、そうなってしまっては辺りの蔓がうねうねと水を飲みに動き始めてしまい西瓜を蹴落とすどころではなくなってしまうので、ものの数分歩けば着くのだからと渋っていたカケイのおやじも含めて小走りに雑貨屋へ向かったものだから、自分たちでも驚くほどの短時間で雑貨屋に辿り着き、カケイのおやじが渋っていたのも忘れて番台の女に足や靴を覆うものをくれと声をかけたのだが、番台の女はどぶのようなひどい口臭で、妹がこの場にいれば毒針を逆立てた雲丹をその口に突っ込んでいたことだろうが、我々は先を急いでいたし妹もこの場にはいない、それにこちらも息が少々あがっているせいで余分に女の吐く息を吸ってしまうので、とにかく女の言うように店の奥の足覆いと靴覆いをさっとそれぞれが手にとり、なるべく呼吸を我慢して会計を済ませていると、初めて来たらしい少女が会釈しつつ店に訪れ、紅い花びらを手に取って我々の後ろに並んだものだから哀れでしょうがなく、しかし、列を待つ少女を気の毒に思いつつも、女の口に突っ込む雲丹が降ってくることはないので、仕方なくそのままにして、はやめに西瓜ころがしの口を塞がねばと身構えたところへ耳に鈴蛆の湧いたような笑い声を女があげたのだった。