未来老人の静かな午後

 八十七歳になる祖母は、今も元気に趣味の庭いじりに精を出しているのだが、ちょっと前に老人会のゲートボールに参加するのをやめた。理由は「あんなもの、怒られてまでやることじゃないから」。ばーちゃん、私はあなたを支持します。

 ゴミ出しのために公民館の近くを通ると、毎回のように朝も早くから老人会の皆様が集まってゲートボールをやっているのだが、元気なのは良いことだし、楽しんでいるのなら構わないのだけれども、どうにも元気があり余り過ぎているのか、そんなに毎日毎日集まることもなかろうに、多少の雨でも昼食持参で集まって、詳しいことはわからないが全国大会かなにかにでも出場するつもりなのだろうか。余生のちょっとした楽しみの象徴のようなゲートボールで、あれほど真剣に、しかも怒り出す者までいるというのだから、私の祖母が辞めてしまうのも無理はない。

 祖母はかねてより、私が学校でうんざりしていたクラス対抗の長縄跳びやら合唱やらに関する愚痴を嫌な顔せず聞いてくれるほど、「頑張りを無理強いされること」に関して否定的な人なのだが、昨今、ようやく部活動なんかの在り方が議論されるようになったものの、長いこと「みんなで頑張る」ということが盲目的に美徳とされてきたこの国では、それなりに息苦しい思いをしたこともあったのかもしれない。なにしろ、円谷幸吉が自ら死を選び、千葉すずが「日本人はメダルキ○ガイです」と発言した国である。

 そんな祖母の影響もあってか、『欽ちゃんの仮装大賞』なんかを観ても、どこぞの小学校がクラス全員で参加していたりすると、「何人かは出たくなかったのだろうなあ」と考えてしまうような人間に育ったわけだが(逆に「会社員一名」とかの演目だと、「好きでバカやってるんだなあ」と嬉しくなる)、自分が老人と呼ばれる年齢になったとき、老人会に所属している姿がまったく想像できない。そもそも、私が老人となる時代に、はたして「老人会」なるものが、まだ存在しているのだろうか。たまに、未来の老人会や老人ホームでは、カラオケでEXILE西野カナ、あるいはRADWIMPS初音ミクを老人が歌っていたり、ガンダムエヴァの観賞会があるのでは、といった話を見聞きするけれども、「同世代で集まる」という文化がどれだけ残っているかのほうが私は気になる。なにせ、上記の話はソフトが異なるだけで、ハードは変化していないのである。もっとも、まだ老人とは呼べない世代の未来妄想が、あまり新鮮さを感じられないことを考えれば、たしかに箱の中身が変化しただけの未来が訪れてしまう可能性は高いのだろうなとも思う。

GBパーク (バンブーコミックス)

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オリンピックに奪われた命―円谷幸吉、三十年目の新証言 (小学館文庫)

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