愚か者よ

 人類は愚かなので、たとえば「女性がピンクを強制されることのない時代」を目指していたはずが、いつの間にか「女性がピンクを選んではいけない時代」を生きていかなくてはならなくなっていた、なんてことになりかねず、実際、その他にも色々と良い方向に向かっているように思っていたのに、いつの間にか別の悪い時代を引き寄せているかのような妙な雲行きになっている事案は沢山見受けられ、あまりの人類の愚かさに愚かな人類の一人である私などは、どうにか気づかないうちにまったく苦しまず、この愚かな世界からおさらばできたりはしないだろうかなどと考えるのだけれども、愚かな人類の一人である私の考えなど愚かであるに違いないので、きっとおさらばするには後悔してもしきれない、途轍もない苦しみを味わうことになるのだろうなと思い至り、愚かなうえに臆病でもある私には、そんな苦しみに自ら身を投げることなど到底できず、とにかく出来る限り苦しまずにいたいと、おそらくそれもまた愚かな考えなのだろうが、愚かな人類に生まれてしまった者として、その定めには抗えず、そういえばこのところ「いじめを苦にして自殺するのは負けである」といった主張に対する批判をよく耳にしたな、確かに私も同意するな、だけれども「それはいじめる側の理屈だ」という言葉を目にすると、他ならぬいじめる側が「死んだら負け」と言っているのだから、たしかに勝ち・負けで言ってしまえば負けなのだろうとも思うし、なにしろ、いじめっこ達が被害者の死の報せを聞いてバンザイしていたなんて話も聞いたことがあるわけで、もちろん、死を選ぶ側は死ぬことで勝ったと思っているとは限らないし、単純に辛さに耐えきれず命を絶つことがほとんどなわけであって、どんなに「死ぬのは負け」だと本気の善意で訴えたとしても、死を選んでしまうほど立場の弱い者が救われることなどないのだろうけれど、では「加害側が負け(悪)」であると主張することが弱者を救うことになるのだろうかと考えると、加害者が悪いのは当然だし、長い目でみれば世の中を良い方向に持っていくこともできるかもしれないが、今苦しんでいる者が救われるかといえば、残念ながらそういうことにはならず、結局、直接的に手を差し伸べない限り、今この時に苦しんでいる者を救うことなんてできないわけで、その度量のある人間ならば、ああだこうだと主張する前に手を差し伸べているよなあ、でも愚かなのが当たり前の人類の中に、果たしてそれだけの度量のある人間など、いったいどれだけ存在するのだろう、というか、そもそも「死んだら負け」云々の話は別にいじめに限った話ではなかったんじゃないか、愚かなあまり私はそのあたりの確認さえしなかったけれど、この件に関するああだこうだといった意見は、どんな意見であれ大半がいろんな確認を怠ったうえでのものに見えてきて、やっぱり人類は愚かだな、そんな愚かさを愚かさの極みである人類が解決することなんて不可能なんじゃないか、少なくとも愚かな私が愚かさの解消された世界を生きることはないだろうな、いやいや愚かさを解消しようとして別の愚かさを産むのが人類なのだろう、むしろ全ての愚かさを取り除こうとするのもまた愚かなことだろう、愚かさの薄い人類くらいを目指すべきだろう、しかし、そう主張するとまた愚かなことを忘れた愚かな人が「そんな志の低いようでは困る!」などと愚かな主張をして愚かな人が賛同し新たな愚かさを創造したりするのだろうな、そこまで考えて愚かな私はやっぱり出来るだけ苦しまずに消えてしまいたいな、などと思い始めるのだが、愚かなので苦しまない方法も思い浮かばず、しかしまた苦しみに耐えるだけの力もなく、これまでの考えそのものが愚かな私の愚かな過ちであれば良いな、それなら自らの愚かさも愛せるかもしれないなと考えて、どうにか一息つく。