「8歳女子の初期装備がくだものナイフってのはイカしてるよね」

 小学生の時、道徳の時間にNHK教育テレビのドラマを見せられることがあった(『虹色定期便』や『さわやか3組』など)。そのなかの「思いやり」がテーマの回で、はっきりと覚えてはいないのだけれど、なにかしら思いやりのなさを見せた男子グループに対し、女子が「男子は軽い槍しか持ってない」と冗談交じりに非難するシーンがあった。思いやり=重い槍、思いやりがない=軽い槍、というわけである。

 どうしてこの駄洒落台詞が記憶に残ってしまっているのかは不明だが、先日、かつて「アンパンマンは最後は暴力で解決しようとするくせにトドメをささないからダメなのだ」と言ってのけた知人の女にこの話をしたところ、リアル戦場ヶ原ひたぎ(更生前)らしくもなく「いい話じゃん」と言うので驚いたのだが、よく聞いてみると「思いやりが深い人間は、いざ自分が裏切られたと考えるとえげつない攻撃をしかけてくるものだから、思いやり=重い槍=攻撃力が高い、ってことでしょ?」という答えが返ってきて、こんな常に攻撃力の方向に考えが向かうような人間(RPGでは真っ先に武器を仕入れるタイプだろう)と長いこと知人関係を続けてきてなお五体満足でいられたのが不思議に思えてきた。気づいていないだけで、ゆっくりジワジワと殺され続けているのかもしれないけれど。

 しかし、私が五体満足でいられたのは、ひょっとすれば「いざとなったら相手の眼球を潰す覚悟がなきゃだめ」というのが口癖のこの知人が、心には「重い槍」を持っていなかったからなのかもしれない。少なくとも、一般的に「思いやりがある」と周りから評価されるようなタイプではない。十五年近い付き合いになるから、その間には私に対して腹を立てたことは何度もあったろうし、事実であれ勘違いであれ「裏切られた」と感じる経験があってもおかしくない年月だ。それなのに私がバリエーション豊かな罵倒のお言葉(不思議とあまり深刻にならない)以外の攻撃を受けていないのは、たぶん他人にそこまでの期待をしていないからであろう。

 思いやりというのは、相手の立場になって考える(相手の立場を想像する)といったことなのだろうけれど、そこから導き出された答えが正しいかどうかとは無関係である。「思いやりをもとう」とだけ言われてもちっとも心に響かず、「重い槍と軽い槍」という駄洒落だけが記憶に残ってしまったのも無理のない話だったのかもしれない。