黒猫の談合

 「黒猫が横切る」というのは不吉の象徴とされているが、いったいどれだけの人間が実際に体験しているのだろう。そういう言い伝えが生まれたからには、実際に経験した者がいるのだろうけれど、どれくらいの頻度で発生していることなのだろう。

 私は生れてこのかた、目の前を黒猫が横切った経験はない。横切るどころか、そもそも黒猫と出くわした記憶がない。やってくるのはクロネコヤマトの宅急便だけで、ひょっとしたら宅急便さえ「傍を横切った」なんてことはないかもしれない。もし、黒猫が横切るという事態が結構な頻度で発生するものなのだとすれば、私はたいへんな強運の持主なのかもしれない。その割に、ツイていると感じたことがほぼ皆無なのは何故なのだろう。

 だいたい、私は「黒猫が横切ると悪いことが起きる」なんて迷信を信じてすらいないのだから、そんな事態が起ろうが起こるまいが関係ないのである。そんなものを回避するためだけに貴重な運を消費しているのだとしたら、そのほうがよほど不幸である。いったいどれだけの幸運を犠牲にして黒猫を回避したというのか。黒猫を回避さえしなければ、1回くらい宝くじで大金が当たったかもしれないし、道端で高価な宝石を拾えたかもしれないし、タモリさんの家に呼んでもらえるような人間になっていたかもしれないし、『それでも町は廻っている』の紺先輩のような人とお知り合いくらいにはなれたかもしれないのだ。

 などという阿呆な話を、同じく黒猫との遭遇が未経験の知人に話すと、彼も同意し「俺だって黒猫を回避しなければ、ふらりと行ってみた競馬場で大金を手にしたかもしれないし、竹藪で札束の詰まったアタッシュケースを拾えたかもしれないし、所さんのベースに雇ってもらえたかもしれないし、映画館の隣の席に池田エライザが座っていたかもしれないじゃないか」と言い出した。勝手な妄言なのだが、好みの女性と「お知り合いくらいにはなれたかも」だの「映画館で隣の席になれたかも」だの、微妙に願望が小さいところに彼らの自己評価の低さが窺える。

 私は自分のことは棚にあげつつも「妄想の中でくらい付き合ってしまえば良いではないか、公言さえしなければ非難されることもないだろう」と提言してみたが、知人氏は「リアリティがなさすぎて駄目だ」と言う。そして、「せめて自分が向井理のような人間だったら良かった」と言った。たしかに私だって、もしも吉沢亮のような人間に生まれていれば、いかなる妄想でも充分なリアリティが生まれたはずである。そもそも、妄想の必要性もないかもしれないが、妄想の必要性のないほど手当り次第な男の思考回路というものは想像すらできそうにないのでどうしようもない。

 知人氏はやがて「そうだ、向井理のような人間となった自分を妄想すれば、お付き合いする妄想にもリアリティが生まれるかもしれない」と言い出したが、それはもう単に向井理池田エライザが恋人同士に扮する映画かドラマの妄想をしているに過ぎないと思った。思っただけではなく、そう指摘した。指摘しなくても良かったのかもしれないが、指摘せずにいられなかった。知人氏も「たしかに、向井理のようになった自分なんて、それはもう向井理でしかなく、とても自分とは思えない」と言った。当たり前の話である。妄想や妄言の自由くらいは認められているのだろうが、その妄想や妄言にどっぷり浸って楽しめるほどのリアリティを感じられるかどうかは別の話である。そこまでのリアリティを生じさせることが不可能な人間に育ってしまったのも、きっと我々が不必要に黒猫を回避し続けているからだろう。

黒ネコのタンゴ

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