教科書は少なくとも目の前の教師よりは役に立つ

 中学や高校の卒業文集などに「キャラの濃いクラスでした」などと書きたがる者は私の通っていた学校でも多くいて、おおむね傍から見ればうすら寒くすら感じる内輪ノリといったもので、「それは卒業して広い社会に出た後でも言えることなのか?」なんて指摘さえも言い尽くされて手垢も溜まりきっている気がする。15年から18年ほどの期間を、ほぼ家庭と学校という狭い世界で生きてくれば、そんな思い込みも仕方ないのかもしれない。

 問題は生徒だけでなく教師にも同じようなことを書きたがる者が存在することで、ちょっとしたリップサービスみたいなものなのかもしれないが、本気でそう思い込んでしまうほど「先生」と呼ばれる人たちの世界が狭いのだとしたら、それはそれはおぞましい限りである。中学くらいの頃から気にはなっていて、検証してみたい願望もあったのだが、いかんせん自分の受け持ったクラスを「キャラが濃い」などと公言してしまうような教師とは談話したいとも思えず、「この程度の人間の集まりでキャラが濃いと思えてしまうのは、あなたの生きてきた世界が狭いからですか?」という質問を投げかけることのできた相手はいない(そんな質問をしていたら、私の人生に余計なトラブルが生じていた可能性もあるので、結果的には良いことだったのだろう)。

 私がこれまでに出会ってきた先生たちのなかには、すでに退職された方も多い。勝手な憶測だが、妙に大袈裟なことを言いたがっていた者ほど教え子のことはあまり覚えていないような気がする。先述の通り、私は大袈裟な話をしたがる教師とは距離を置いていたので、そういった教師たちが私のことを覚えている可能性も低いだろう。距離を置いていたせいでかえって記憶に残ってしまっていたら嫌だけれど。