ドライトーストにキャベツを添えて

 日本映画学校への入学が決まって新百合ヶ丘近辺での住居を探していたとき、不動産屋の方が「映画学校の学生さんは、あえて汚い部屋を探す人もいる」と言っていた。私も容姿的には貨物列車が通ると揺れる部屋でキャベツばかり齧っているのがお似合いなのだろうけれど、四畳半フォークよりはアメリカンブルースのほうが好きなので、同じ列車が通ると揺れる部屋でも『ブルース・ブラザース』でエルウッドが寝泊まりしていた生きてるんだか死んでるんだかわからんおっちゃんが溜まり場になっている住処でドライトースト齧っていたい。似合わないけど。そんなわけで、日本的な汚い部屋の紹介は丁重にお断りしたのだった。

 さて、実際に汚い部屋を好んでいたのは、特に俳優科の学生らしく、面白半分であったりする場合も多いのだろうけれど、芸術系の道に進むのであれば汚い部屋で貧しい暮らしをするべきだという妙な固定観念に縛られていた者もいそうである。「清貧」なんて言葉を好む者も、この界隈には少なくない。

 もっとも、清貧という思想は、権威のある人物が自分への戒めとして徹するのが最適だと思うのだが、大抵は抑圧への言い訳か、はたまた只の根性論や僻みだったりする。それに、元々古い建物で部屋もくたびれているという意味での「汚い部屋」と、単に居住者の掃除が行き届いていないだけの「汚い部屋」は全く違うものだろう。前者はともかく、後者は少なくとも「清く」はない。

 実習作品の撮影場所として使用させてもらった某先輩の部屋が後者の意味での「汚い部屋」で、テレビなどでセンセーショナルに映し出されるようなゴミ屋敷ほどではなかったものの、どちらかと言えば潔癖の気のある私の精神を追いつめるには充分な汚れっぷりで、清掃作業の途中で完治していたはずの喘息の面影が十年近くぶりに顔を覗かせはじめ、撮影開始しばらくすると本格的にゼエゼエしはじめ、あえなく現場から離脱するはめになった。やはり、部屋の中は綺麗にしておいたほうが良い。

 先輩の住んでいたアパート自体は四畳半フォーク的、あるいは森見登美彦作品的な造りではなく、立派とは言い難いものの近代的なものであった。ゆえに先輩が造り自体が古く汚い部屋に住んでいたらと思うとおそろしい。それ以来、この先輩とは会っていないし、映画関係の仕事に就けたのかどうかもわからないけれど、現在住んでいる部屋がどういう状況にあるのかは、せいぜい情報を耳で聞くだけで良い。

KAGUYAHIME Best Dreamin‘

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