「奇抜な死に方」ならダーウィン賞を眺めると豊富に存在するように思えてくる

 復讐は何も生まないとは言うけれども、倫理的な問題や法的な問題などを敢えて無視して、実際に憎い相手を好きなだけ殴りつけることができたとしたら、やっぱり多少はすっきりするだろう。もちろん、それを許してしまっては社会が成立しているとは言えないし、現代人は基本的に社会の成立なしに繁栄はできない。社会の崩壊後でも生き延びている者はそれなりに多くいるだろうが、それはあくまで生き延びているというだけだ。

 しかし、もちろん無法状態を歓迎できるほどの高い生存能力など持ち合わせていない私だが、闇取引なのか超法規的措置なのか、とにかくそういった特別な事情のうえで憎い相手を好きなだけ痛めつけても良いという場に置かれた時、その機会を放棄する自信というものは正直言ってない。ないからこそ、理性が憎しみで蒸発していないうちに、その機会を享受することで生じそうな負の側面をあれこれ想像してみたりするのだけれど、どうにも余計な思索にまで足を踏み入れてしまいがちだ(それを思索と呼んで良いものかは疑わしいが)。

 たとえば、憎い相手を単純に殴ったり蹴ったりして痛めつけようという場合、人はおおむね相手のどの部位を狙うことが多いのだろう、なんてことを考えはじめたりする。戦闘や格闘ではないのだから、まずは手足を攻撃して動きを封じて、といった戦略的なことを考えたりする必要性はあまりない。仮定ではあっても状況が状況であるから、相手は拘束されていると考えたほうが自然かもしれない。「お前の気が済むまで、好きなようにすれば良い」というわけだ(話を複雑化させないために、道具はせいぜい棍棒や鉄パイプ程度の単純なものしか用意されていないと考えてみる)。容易に想像できるのは、やはり顔面や腹部だろう。特に顔はアイデンティティの象徴のようなものだから攻撃されやすいはずだ。逆に考えれば、猟奇的な話になってくるが、憎い相手の切断された手首だけを持ってこられて「好きなようにしろ」と言われても、どう痛めつけようとあまり憎しみは晴れない気がする。「憎い相手の一部だったもの」ではあっても「憎い相手そのもの」ではない。それを痛めつけられるかどうかは、憎しみの度合いというより、復讐する側の猟奇性の問題かもしれない。

 また、どれだけ信用に足る証言かは分からないが、救急隊員は相手が死体になった途端、態度が冷淡になるなんて話も聞いたことがある(具体的には、モンド映画の金字塔とも謳われた悪趣味映画『ジャンク』シリーズの6作目『新ジャンク 死の復活祭』における台詞)。これが復讐においても同じことが起りえるのかどうかという話なのだが、これもまた、どちらかといえば猟奇性の度合いのほうが大きく影響するのかもしれない。

 ホラー映画に関するドキュメント『アメリカン・ナイトメア』において、ジョージ・A・ロメロトム・サヴィーニが「奇抜な殺し方を考えるのが仕事になった」と冗談交じりに語っていたが、残虐な事件は数あれど、「奇抜な殺し方」と呼べるような蛮行はさほど多くはない印象がある。残虐ではあっても、いわゆる普通の人々であっても、少し軌道を逸れれば踏み入れかねない地平というのがほとんどだ。まあ、そうでなければ「奇抜な殺し方」なんて言葉も生まれないだろう。良くも悪くも、奇抜と呼ばれるほどの想像力なんて、そうそうあるものではないのだ。