「春から夏へ、春から夏へ、夏から春へは行きません」(所ジョージ「組曲・春から夏へ」より)

 小学校1年生の時、四季の順番を「春→秋→夏→冬」だと比喩ではなく本当に足を踏み鳴らしながら物凄い形相で言い張り続けた奴がいて(「一年中、冬みたいな場所もある」といった話ではなく、あくまで小学一年生同士で交わされる日本の四季についての話)、最後には周りのほうが面倒くさくなり、「まあ、決めつけるのは良くないよね」などと言って、内心「決めつけているのは、明らかに間違っているてめえの方じゃねえか」と思いつつも、どうにか有耶無耶のうちに実りのない会話を払いのけたのだが、春秋くん(仮名)が少なくとも日本における四季が「春夏秋冬」であると気付くことができたのは、いつのことだったのだろう。

 その後、少しして、教科書に載っていた四季(季節表わす写真と共に、たしか左上、右上、左下、右下の順に並んでいた)を全員で順番に読み上げる際、春秋くんだけは2番目に「秋」と声に出していたようだが、他の全員の「夏」という声にかき消され、担任も「秋」と言っている者がいるのに気づかず何事もなかったかのように授業は続き、こっそり春秋くんの様子を見ると、納得いかないような顔をしているが疑問を口にする勇気もないといった感じだったのをおぼろげに記憶している。帰宅してから親に確認をしたのか、はたまたすぐに察して自分の過ちをその場で封印したのか。はっきりしたことは言えないが、春秋くんがそれまで信じていた四季が崩れ去ったのは、きっとあの日である。そうであってほしいという希望も込めて。

 しかし、幼い頃の過ちや思い込みというのは、私にだってたくさんある。いまだに思い出すたび、死にたくなるようなものも多くあり、処方された安定剤の消費量が減らない一因にもなっているのだが、春秋くんを含めた他の皆様は、どれだけこういった「幼少期の恥」のフラッシュバック的な襲撃に悩まされているのだろう。春秋くんに関して言えば、傍から見た限りでは、四季の恥を有耶無耶に封印したであろう後も、面倒ないばりんぼ的性格は変わらなかった。いや、私だって、他人の前でわざわざ過去の恥を晒す度胸はないし、ふと蘇った古い記憶に苛まれている時も、他人の目がある場合は、なるべく悟られないよう努力していた(そんな努力が必要だったのかどうかは別として)。だが、恥であろうとなかろうと、幼少期の記憶自体がほとんど残っていないらしい者も少なからず存在するようなので、過去の恥のフラッシュバックのせいで何度も命を絶とうとしている身としては、そういった苦しみのない人生というのがどういうものなのか気になるのである。だからといって、そうなりたいとも思わないけれど。

 

NOW AND THEN

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