『空にかたつむりを見たかい?』 第1回

「らんちゃん、そんなバカな話、誰が真面目に聞いてくれるの?」

「事実だってことにしちゃえば、案外信じる奴が出てくるんだよ」

「それって、いいことなの?」

「いいことかどうかは、時と場合によるね」

 

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知悦部(しりえっぷ)小学校閉校記念

 ――映画『デヴィッド・バーンのトゥルー・ストーリー』を模して知悦部小学校と地域の人々を描く

 

 知悦部地区はここからです。北海道の中でも町に住む人からすれば、この辺りはとても自然豊かに見えるかもしれません。しかし、畑が広がっているだけでは、自然豊かとは言えません。

 ここも随分変わりました。未開の地だった頃のことまでは知らずとも、荒野と呼んで差し支えない風景を覚えている人が、まだ何人もいます。もっとも、これから先も変わっていくかどうかは怪しいところです。

 大昔、この辺りは海でした。貝の化石が出土することもあります。そして恐竜時代。以前、大型のティラノサウルスの歯の化石が、国内で初めて長崎市で発見されたと新聞に載っていたのを読みました。子供の頃、恐竜に夢中になった人もいるのでは? 僕は現在進行形で大好きです。恐竜よりも、むしろもっと古いカンブリアの海に夢中です。アノマロカリスピカイアは、はたして本当にアニメやドキュメンタリーで見るような姿形をしていたのでしょうか。考えるだけでわくわくします。残念ながら知悦部地区ではありませんが、近隣の市町村ではデスモスチルスの化石が発見されています。第三紀後期ごろの哺乳類です。ナウマン象の化石が見つかった町もあります。いずれ、知悦部でも見つかるかも。

 知悦部という地名は「アシリウェンペ」からきています。アイヌの人々が、この土地をそう呼んでいたのです。アイヌの言葉で、アシリとは「新しい」という意味。ウェンペは「愚かな者」「悪い者」「怠け者」。つまり、「新しい愚かな者」「新しい悪い者」「新しい怠け者」……。そんな名前で呼ばれていた理由は、アイヌのとある伝説で語られていますが――あまり良い伝説ではないので省略しましょう。

 今では、「知るを悦ぶ部」と書いて「知悦部」。かつて、「知」の部分は「尻」でした。「臀部」の「尻」です。古代アイヌの人々は、川を人間と同じ生き物、それも女性と考えていました。ゆえに川は人の体と同じ部位を持っていたといいます。「知る」ではなく「尻」という文字が使われていた理由は、ただの当て字だと言われていますが、ひょっとしたら、そんなアイヌの人々の考えが少なからず影響していたのかもしれません。

 知悦部地区は、一九○一年、明治で言えば三四年、国有地の貸付け申請がなされ、本格的な入植と開拓が始まりました。しばらくは、食料も満足にとれず、丸太と雑草で作った掘立て小屋での過酷な生活。何度も冷害に見舞われ、離農する者も後を絶ちませんでした。しかし、現在では、全盛期から比べれば農家戸数こそ減っているものの、小麦、ビート、豆類などが畑に広がる、北海道でも有数の穀倉地帯です。農耕技術の発達により、人口の減少と農業地帯としての強度は、あまり比例しなくなっているようです。人よりも作物が栄えています。いずれ作物に支配されるかも。

 昔は映画館まであった最寄の「町」である中磯瀬(なかいそせ)も、店らしい店は、今やコンビニが一軒あるだけです。もっと町らしい町へ行くには、車で三十分はかかります。週に一度や二度は、そこまで出かけて買い物をする人がほとんど。ゆえに、知悦部小学校の児童たちには、登下校中に寄り道ができる場所などありません。それが良いことなのかどうかはわかりませんが。

 知悦部小学校の話をしましょう。一九二九年、昭和で言えば二年、中磯瀬尋常小学校と、かつては西中磯瀬尋常小学校頃厚居(ころあつい)特別教授場だった頃厚居尋常小学校が統合し、知悦部尋常小学校が発足。戦後の学制改正で一九四七年に知悦部小中学校となり、一九五二年に中学校を豊和(ほうわ)中学校へ統合、知悦部小学校が生まれました。

 最大児童数は一九三三年の二二二人。しかし、農家戸数の減少で児童数も減り、一九六五年から一九七五年の十年間で、一一一人から四七人へと大幅に減少。昭和の終わりから平成にかけては、多くても三十名前後、ここ数年は十名前後の状態が続き、新入生のいない年もしばしばで、二○一四年の春ごろから閉校に向けた議論が始まりました。そして昨年、ついに今年度での閉校が決定しました。

 これが知悦部小学校です。一九九三年に現在の校舎が建てられました。ご覧ください。立派でしょう? 外観はまるで古びていません。もったいない限りです。でも、中はどうなっているか? 卒業して何年も訪れていなかった人は、がっかりするかも。特に真新しい校舎で学んだ、九十年代半ば頃に児童だった皆さんはね。