『空にかたつむりを見たかい?』 第5回

「手が止まってるよ、あゆむん。そんなに運動会の写真つまらない?」

 塔子さんが、ペットボトルのお茶を僕の頬に押し付けながら言った。考えごとをはじめると、手が止まるのは僕の癖だ。「僕の癖」と呼べるほど珍しい癖ではないけれど。

「向こうで知り合った連中にひとり、写真で食べてる奴がいるけど、あいつに任せれば、あゆむんの手が止まることもなかったかな。まあ、北海道までわざわざ呼ぶのもねえ。向こうの連中の中では、珍しくいい奴なんだけどね。ちょっと太っちょだけど」

 塔子さんは僕の隣に腰掛け、写真を覗きこみながら言った。距離が近くて、少し緊張する。

 今日は、六月に行われた運動会の写真の中から、式典用映像に使えそうなものを選ぶため、土佐先生の家に来ている。ダイチとマリサは、他に用事があるので来ていない。

 土佐先生の家は、小学校の傍に数軒建てられている教員住宅のうちの一軒だ。一階建ての狭い中に、これでもかと本やCDやDVD、ビデオテープなどが並んでいる。母さんも本や映画や音楽が好きで、僕の家にも結構な量のコレクションがあるのだけれど、土佐先生のものとは比較にならない。小学校の頃から、しょっちゅうこの土佐先生のコレクションを借りているけれど、ようやく三分の一ほどに達したところだ。閉校すれば、土佐先生はここから出て行くことになるのだろうから、どうやら土佐洋太コレクション完全制覇の夢は達成できそうにない。

 かつては、ほとんどの先生たちが、知悦部小学校在任中は、この教員住宅に住んでいた。けれど、年々教員住宅を利用する先生は減り、現在は楠本校長と飯塚教頭と土佐先生だけで、他の先生たちは自宅から車で通って来ている。

「土佐先生はどこ行ったんですか?」

 僕は塔子さんから頬に押し付けられたお茶を受け取り、コップに中身を注ぎながら訊いた。

「ん? 学校で古い写真とか漁ってるんじゃない?」

 土佐先生の家に来ているのに、どうして僕が塔子さんと話しているのかというと、塔子さんと土佐先生が同棲しているからである。

 夫婦でも恋人でもないらしいけれど、塔子さんは、六年前に土佐先生が知悦部小学校に赴任してきた時から、ずっと一緒に住んでいる。

 二人は僕たちと同じ中学校出身の同級生同士で、もう十五年以上の付き合いになる。いわく、腐れ縁というやつだとか。

 ちなみに土佐先生は、「先生」と呼んではいるけれど、正確には事務職員だ。だから、保護者からの電話対応や教員に電気やコピーの節約を訴えるなんてこともしている。仕事中の土佐先生は、塔子さんに言わせれば「死人のようで機械のような仕事ぶり」で、それがかえって妙な迫力を伴うのか、保護者も教員も、土佐先生に対しては、あまり強い態度に出れないようだ。

 さて、塔子さんが何者かというと、はっきり言って僕にもよくわからない。わかっているのは、先述の通り土佐先生の同級生であり同棲相手であること、大学時代は神奈川に住んでいたこと、そして、美人だけれどかなり変わり者であるということだけだ。

 中学二年の男子が、美人のお姉さんと親しくしているというのは、他の男どもから羨ましがられそうなものだけれど、あまりそうはなっていない。どうも塔子さんは、憧れよりも「畏怖」の対象となっているようだ。その状況について、塔子さん本人は「ラベンダーは害虫を寄せ付けないの」と言っている。

 職業は、どうやらフリーライターらしいのだけれど、他にも色々やっているらしく、本人に言わせれば「どれも、広い意味でサービス業」らしい。「らしい」ばかりで、どうにも実体が掴めない。

 当然、事務職員とは言え、小学校の関係者が、そんな悪く言えば怪しげな女性と同棲していることに対して批判的な人もいたけれど、特に明確な問題があるわけでもなく、本人たちもそんな批判などまったく気にしていない。それに、先述の秀行さんだけでなく、他にも土佐先生や塔子さんを古くから知る人が知悦部地区にはいたので、結局批判的な人たちも黙認するようになった。塔子さんが批判的な人たちの弱みを握ったりして黙らせたという噂もあるけれど、真偽のほどは定かでない。

「昔はもっと派手だったんだってね、ここの運動会」

「そうみたいですね」

「うるさかったんだろうね」

「コンバインの方がうるさいです」

「あゆむん、ここの生まれなのに、まだ慣れてないんだね」

 知悦部小学校の運動会は、正確には「知悦部地区大運動会」という。最盛期は、地域の人々のほとんどが仕事を休んで集まり、夜店も並び、お祭りそのものだったらしい。

 近年も、集落対抗競技や小学校の隣にある知悦部僻地保育所の競技などが同時に行われ、夜になってもグラウンドで慰労会が開かれ、焼肉を囲みながら、地元バンドの演奏などで盛り上がっていた。

 全体的に、子供よりも大人が盛り上がっていて、地区の人口の減少がより目立ちはじめた八十年代から九十年代にかけても、親世代や老人会に活気というか無鉄砲な人が多かったらしく、集落対抗競技には、トラクター用の巨大なタイヤを用いたタイヤ転がしや、農業用の収穫コンテナを身長よりもはるかに高く積み上げ、それを手押し車に乗せて全速力で走る競走、さらには軽トラックを手で押して走るといった危険な競技が増え、当然のように怪我人も出た。だが、基本的に危険な競技を行うのは大人たちで、大きな怪我をするのも大人ばかりだった。そのため、特に大きな問題にはならなかったらしい。土佐先生が掘り出してきた写真からも、その異様な熱気は伝わってきた。

 僕やダイチの小学校時代では、さすがにそこまでの熱気はなかった。最後の開催となった今年の運動会の写真を見ても、あまり興味を引かれないのは、そういった過去の盛り上がりを知ってしまったせいかもしれない。