『空にかたつむりを見たかい?』 第39回

知悦部小学校PTA会長 上野信道   ――知悦部地区小学校と地域を語る

 

 昔いたな。蕎麦アレルギーの子に、平気だって言って食わせてた教師が。給食のおばさんが、あれはかわいそうだったって言ってた。そいつのアレルギーが、軽度だったのが余計不幸だったのかもな。水ぶくれみたいなのが顔にできて痛々しいんだけど、分からない奴にとっちゃ、ニキビが悪化しただけのように見えたんだろう。実際、俺の知り合いにも、蕎麦アレルギーだったんだが、駅の立ち食いうどんを蕎麦と同じ鍋で茹でられてることを知らずに食っちまった奴がいてな。結構、ひどいことになってたんだけど、自分でも気づかないで、しばらく市販のニキビ治療薬を塗り続けてたらしい。もっと症状が重かったら死んでただろうな。まあ、さっき言った教師は、知悦部にいる間、ずっとそんな調子だったんだが、松永先生が来て助かった。同じ体育会系の先生で、すごい熱い人ではあったけど、そういう常識のなさっていうか、根性論の押し付けみたいなことはなかった。

 

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 夏休みも終わり間近となった、ある晴れた日。一人でカメラを持ち、空飛ぶかたつむりの川と防風林の近くを撮影していると、偶然、上野に会った。

 上野は、なにやら防風林の中でうろうろしている。どうやら、木を見て歩いているようだった。

「上野?」

 声をかけると、上野は少し疲れたような顔で振り向いた。

「ああ、アユムか。何してんだよ」

「君が何をしてるかの方が気になる」

「先に俺が訊いたんだから、答えろよ」

 疲れているせいだろうか、あまり機嫌は良くないらしい。

「閉校式で流す映像の撮影だよ。ほら、楠本校長に頼まれたやつ。この辺の景色を資料映像にと思って」

 空飛ぶかたつむりを撮影しようとしているなんて、口が裂けても言えない。

「ああ……例のな。そういや、おとといオヤジにもインタビューしてたよな」

「堀田氏にはインタビューするつもりはないから安心しな」

 僕がそう言ってやると、上野はようやく少し笑顔を見せた。上野も堀田氏のことは苦手なのだ。基本的に僕たちは、鬱陶しい相手とは関わろうとしない。

「で、君は何してんの?」

「クワガタ」

 上野は僕から視線を外し、再び木を見ながら答えた。

「クワガタ? 今になって?」

「探せばまだいる」

「いや、そういう意味じゃなくて」

 小学生の頃、たしかに何人かがクワガタ捕りに熱中していた。上野もそのうちの一人ではあったと思う。でも、中学に入ってからもクワガタを追っているという奴は知らない。「ガキくさいことやってんな」という言葉が出そうになったが、ぐっと我慢した。バスケットボール同様、それだけ好きということなのかもしれない。

だが、僕のそんな思いを察したわけでもないだろうけれど、上野は否定の言葉を口にした。

「別に好きでやってるわけじゃねえ」

「ちょっと前までは、好きだったんじゃないか?」

「いや……まあ、別にクワガタが嫌いなわけじゃないな。……ああ、やっぱここじゃダメか」

 上野はそう言うと、こちらへ歩いてきた。苦笑いというか、照れ笑いというか、そんな感じではあったけれど、少なくとも僕に対して怒っているわけではないようだ。

「気をつけな。川に落ちたら悲惨だぞ」

「これ、川か? 川って言っていいのか?」

「昔は、ちゃんと川だったんだ」

「信じられねえよな」

 道路まで上がってきた上野は、シャツやズボンについたゴミや汚れを手で払い落しながら言った。

「で、なんでクワガタを?」

「ああ……弟が」

「弟?」

 上野の弟・公延は、知悦部小学校の三年生だ。現在の知悦部小学校で一番人数の多い学年が三年生だが、それでも公延を含めて四人しかいない。

「あいつの自由研究用なんだ。クワガタのエサの好みを調べるとかなんとか……」

「それ、間に合うのか?」

 夏休みの残り日数は、もう一週間もないはずだ。

「間に合わないかもな」

「弟、そんなにズボラだったっけ?」

 少なくとも、上野は宿題を忘れてくるようなタイプではない。成績も悪くないほうで、それは弟も同じだと聞いた気がする。

「本当は終わってたんだよ。あいつ、……ええっと、なんて言うんだっけか。ああ、ピンボールか。木材切ったりして、自作のな。五日目くらいには完成してたんだ」

「じゃあ、なんで今さらクワガタの研究なんか?」

「この時期になって、担任が急に電話してきたんだ。夏休みの課題は工作じゃなくて自由研究にしろって」

「どういうことよ?」

「知らねえよ。工作よりも自分のクラスの生徒が全員、自由研究をやってた方がかっこいいとでも思ったんじゃねえの。あいつだけじゃなく、他の奴らも工作って決めて作り終えてたのにな」

「担任って誰だっけ?」

「正確に言えば担任じゃないか。ちょうど産休でな。今、教頭の飯塚が代理やってる」

 飯塚靖教頭。僕らの中での知悦部地区のめんどくさそうな人ナンバー2。そして、めんどくさそうな人ナンバーワンである堀田氏の数少ない理解者。

「クソだな」

「クソだよ」