上野が去った後も、しばらくカメラを向けていたが、かたつむりが飛び立つ気配はなかった。あの日と違うことと言えば、なんだろう? やっぱり国島先生が撒いた、あのナントカ菌がいけなかったのだろうか。上野もクワガタは見つけられなかったようだし。いや、かたつむりに関しては、結局僕の見間違いか。あるいはキツネに化かされたか……。
「あゆむん、何を見てるの?」
急に声をかけられ、振り返ると、ナスレディンを連れた塔子さんが立っていた。
「そちらこそ、なんでナスレディンを?」
「ダイちゃんがウチのほうまで散歩させに来てね。でも、ナスレディン、ダイちゃんよりあたしの方が好きみたいだから、今日の散歩は交代してやったの」
「ダイチは?」
「洋ちゃんの仕事の手伝いしてる」
「そうですか……」
そういえば、ナスレディンはマリサにも随分となついている。神を見たい、美人好きのオス犬か。ああ、でもユイは迷惑がられていたな。いや、ユイは美人というタイプではないか。
「で、あゆむんは何を見てるの?」
「ああ、かたつむりを……」
「かたつむり、飛んだ?」
「いえ……って、え?」
「屋根まで飛んだ?」
「いや……」
「飛ばない?」
なぜ塔子さんの口から「かたつむり」と「飛ぶ」という言葉が繋がって出てくるのだろう。
「……誰に聞いたんですか? マリサですか?」
「あゆむんが、空飛ぶかたつむりを見たことがあるって話はマリりんから聞いた。あ、マリりんのこと責めないであげてね。あたしがマリりんの心に入り込んだだけだから」
マリりんの心に入り込むってなんだろう。いや、単に懐柔したということなのだろうけれど、塔子さんが言うと、なにか文字通り、妖怪じみた能力を使ったようにさえ思えてくる。
「でも、かたつむりが飛ぶっていう話自体は、もっと前から知ってたよ」
「もっと前って……」
「初歩的なことだよ、ライアル・ワトソン君」
そういえば、かの有名なニューエイジサイエンティストであるライアル・ワトソンの『百匹目の猿』は、本人も創作であることを認めていたのだっけな……。
僕は少し混乱していて、偉大なるシャーロック・ホームズの友人ではなく、そんな嘘つき学者さんの名前で呼ばれたことの意味はなんだろう、なんて考えはじめてしまっていた。