朝は湿度が高めだ。その湿度と妙な夢のせいで、ひどく頭はぼんやりしている。僕は暑さ以上に湿気が苦手だ。肌の潤いを犠牲にしてでも湿気を取り除きたい。おそらく、東京には住めない。
歯磨きと洗顔で不快感を取り除いていたら、すでに土佐先生がキャンピングカーの外に出ているのに気づいた。僕も少し急いで身支度を済ませ、外に出る。
「おはよう」
僕も挨拶を返す。
「おはようございます」
「みんなはまだ寝てる?」
「はい」
ダイチもマリサも塔子さんもまだ眠っている。ナスレディンもキャンピングカーの屋根に登ったまま寝ていた。
「まだ時間はあるから大丈夫。乾かないと飛べないんだよ」
「かたつむりの話ですか?」
「かたつむりに限った話じゃないよ」
土佐先生はそう言うと、用意してあったクーラーボックスの中から、小さな水槽を取り出した。中には、二匹のかたつむりが入っている。
「どうしたんですか、それ」
「こっそり飼ってた」
二匹のかたつむりは、どちらも少し大きめのサイズだ。そして、少し殻が青味がかっていて、ちょっと珍しい。
土佐先生は、水槽からかたつむりを取り出し、二匹とも草むらに放した。
「雨が多いと、麦畑に雑草が多くなるね」
「うちの前の麦畑は、雑草のほうが目立ってますよ」
「畑には持ち主の性格が出るよね」
僕と土佐先生が、特に意味のない会話を続けていると、塔子さんが起きて来た。なぜか、カウボーイハットを被っている。
「カウボーイハットは美人の特権なの」
たしかに、様になっている。いや、塔子さんなら、なんだって様になるだろう。『トゥルー・ストーリー』でのデヴィッド・バーンもカウボーイファッションだった。なんなら、僕たちが作っている映像の案内役も、カウボーイ姿の塔子さんに頼めばよかった。
「ねえ、あゆむん。あのかたつむりの色キレイじゃない? うすーい青っていえばそれまでなんだけど……」
「見たことない感じです。未知のなにか……」
「そう? あたしはとっても懐かしい感じ。DNAが懐かしいって叫んでる。それでも、あゆむんが未知だっていうなら、きっとあの色は太古の色だね」
太古の色をまとった二匹のかたつむりは、草むらの中をゆっくりゆっくりと僕たちから離れていく。
「そろそろ、残りの二人も起こしてきてくれるかい」
土佐先生に頼まれ、僕が二人を起こしに向かおうとすると、先に塔子さんが「あたしが行ってくる」と言ってキャンピングカーの中に戻っていった。
「濡れても乾くのを待てばいい。待ち切れないなら、誰かに乾かしてもらえばいい。乾かせばすぐに飛べるようになる」
かたつむりのほうを見たまま、土佐先生がつぶやく。
「そろそろだよ」
僕もかたつむりに集中する。
「おはよう……って、まだ眠いんだけど」
マリサが塔子さんと一緒に出てきた。僕は、「あれ」とかたつむりを指差す。
マリサも「あ!」と声を出した。
かたつむりの殻がおもちゃの巻き笛に息を吹き込んだ時のように、まっすぐに伸びた。その両側は細かく波打っている。
「ダイチ! ダイチ!」
マリサがダイチを呼ぶ。ようやくダイチも起きてきたようだ。
二匹のかたつむり、いや今ではまったくかたつむりには見えないその生き物は、草むらから浮かび上がり、しばらく僕たちの目線くらいの高さで踊るように交差した。かたつむりのダンス。そして、勢いよく空高く飛び去っていく。
「ダイチ、撮った?」
「僕、見ました」
「……」
カメラを持ってさえいないダイチを見て、マリサがあきれたような顔をしていた。でも、撮らないほうが良かったかもしれない。
「どこ行った?」
ダイチがようやくカメラを手にして、空中を探す。だが、カメラ越しだとかえって見つからないらしい。
「まだ、そんなにスピードがないから肉眼のほうがいいかもね」
もはや、実体の掴めないただの画面のノイズのようになってしまったかたつむりたちが、上空を飛び回る。ナスレディンが珍しく大きな声で吠えた。土佐先生は、このおかしな光景を前にしてもまったく動じない。
「あははははは」
塔子さんは、気持ちよさそうに笑っている。僕も、なんだか笑いがこみ上げてきた。
「もう、笑うしかないな」
ウィンステッドの大嘘つきも、ミステリーサークルを作ったおっちゃんたちも、クライスラーもメ―ヘレンも、ひょっとしたらライアル・ワトソンも、そしてもちろんバンクシーやその偽物たちも、きっとこんな気分を味わったんじゃないだろうか。
この秘密を知っているのは、僕たちだけだ。
知られたところで、誰も信じることすらないであろう、無意味な秘密。
世界に対する、どうでもいいけれど圧倒的な優越感。
そうか、僕の勘は、これに反応していたのか。なら、上野の言っていたことは正しい。僕はガキっぽい。間違いない。
でも、なにかひとつでも、相手より優位に立てることがあったほうがいいじゃないか。余裕がないと優しくなんかなれない。ただ対等であることなんか無理だ。優越感、万歳。
だから、みなさんには、こんな話を信じてもらっては困るんだ。
「事実だってことにしちゃえば、案外信じる奴が出てくる」
ラントさんはそう言っていたらしい。なら、念のため、その教えに基づいて最後に一言付け加えておくことにしよう。
「このお話は、フィクションです(LIAR STORIES)」