車はあくまでも快適憎らし……じゃなく、快適に暮らす道具

 自動車のタイヤをパンクさせる、窓を割る、悪戯書きをする……こういった自動車に対する器物破損行為は、単純な愉快犯、ストレス発散の捌け口、所有者個人への恨みといった理由が多いと思うのだけれど、「自動車そのものに対する不快感」という場合は、どの程度存在しているのだろう。こうした事件をニュース等で見聞きするたび、私が真っ先に思い浮かべる犯行理由は、この「自動車そのものに対する不快感」である。

 何度かここでも記しているように、私は自動車というものが好きではない。やたら大きなエンジン音を響かせるような輩やドリフト族と呼ばれるような連中に対しては、殺意すら抱くほどである。ゆえに、それらしき車が停めてあるのを目にするだけで、破壊衝動が湧いてくる。持主が実際に不快なエンジンを私の傍で響かせたかどうかとは無関係にである。

 今のところ、私の理性が衝動に勝利を収め続けているので、少なくとも自動車に対する器物破損の罪で起訴されることは、冤罪に巻き込まれない限りはない。しかし、騒々しいエンジン音を響かせていきがっているような奴が滅亡しない限り、私の自動車に対する不快感も消えることはないだろう。理性もこのところは苦戦気味なので、いつ「無差別うるさそうな自動車破壊事件」が発生するか分からない。私が牢屋にぶち込まれること自体は、さほど悲しむ者もいないだろうから良いとしても、健全な自動車愛に溢れる者がとばっちりで愛車を破壊されるような悲劇はあってはならないことだろう。ゆえに、健全な自動車愛好家たちが率先して不届き者たちを成敗するべきである。時には法を逸脱することも必要となるかもしれない。法を逸脱すれば当然、牢屋にぶち込まれることになるのだが、そうなれば「自分は健全な自動車愛好家であると信じて疑わない不届き者」も減ってゆくのだろうから、私にとっては願ったり叶ったりなのである(←大いなる利己主義発言)。

CAR SONGS OF THE YEARS

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