ピクニック・ノット・ハンティングウォーク

 「神隠し」と呼ばれる事例の大半は子供か女性である。成人男性が突然いなくなっても原因が何であれ「失踪」としか捉えられない気がする。どうも「神隠し」という言葉の持つ神秘性というかオカルト的ロマンとは結びつけられにくい印象がある。オカルト的想像力に接近しても、せいぜいUFOによるアブダクトくらいだろう。

 このことから、日本における子供や女性の置かれていた境遇などをあれこれ考察することも可能だろうけれど、「神は成人男性には見向きもしない」と考えられていたのであれば、それはそれで男というものに対するぞんざいな視線というのも感じられて、なんだか侘しくもなってくる。「男なんてどいつもケダモノ以下」的な価値観の持主にとってみれば、UFOによる誘拐さえ、アブダクトではなくキャトルミューティレーションと呼ぶべき事象なのかもしれない。

 現代においては、よほど不可解な点が目立たなければ、失踪者がどんな人物であれ、基本的には事件か事故として捉えられ、「神隠し」とはなかなか呼ばれない。オカルト的想像力に頼らずとも、この世界は恐怖だらけである。

 さて、もし私が突然姿を消したとなると、おそらく知人のうちの少なくない者たちが、犯罪に巻き込まれたわけでも事故に遭ったわけでもなく、つげ義春の漫画のような蒸発譚を思い浮かべてしまう気がする。もっとも、現代は天狗や狐にさらわれるのと同じくらい、こういった蒸発も成し遂げることが困難になっているとは思うが、正しいサバイバルの知識を得るのは比較的容易になっているはずだ。たくましい人ならば、その知識を駆使して山や森に籠って生きることも不可能ではないだろう。

 しかし、たくましさの欠片もない私の貧弱さを知る知人たちが、山や森で狩猟生活を送る私の姿を想像できるとは思えないし、なにより私自身が想像できない。おそらく、住居からそう遠くない場所で早々に力尽きているだろうから、せめて埋葬していただければ幸いである。