「僕が小学生のころ偶然に知り合ったある担任は僕に向って偉そうに言ったとか言わなかったとか」

「完璧な教師などといったものは存在しない。完璧な生徒が存在しないようにね。」

 

 僕が小学生のころ偶然に知り合ったある担任は僕に向って偉そうもなにもそもそもこのような言葉をかけたりはせず、他のクラスメイトたちと流行りのゲームと流行りの音楽の話ばかりしていて、そうでないときは自分の貧乏学生時代のエピソードを授業中に語り出す程度であり、彼との偶然の出会いによって僕が文学や哲学に目覚めたり学者を目指したりするなんてことにはならなかった。とはいえ、嫌いな人間というわけでもなかった。

 

 なにか珍しい体験はないかと尋ねられた時、小学生の時に担任が一時的に行方不明になった話をした。幸い、若人あきら(現・我修院達也)より早く見つかった。そして、若人あきらが見つかったのと同じくらい(つまり、失踪から3日目)には、何事もなかったかのように教壇に立っていた。後に伝聞的に知ることになった失踪の原因から考えると、行方不明になったことよりも3日目には職場復帰できていたことのほうがよほど珍しい体験だったといえる。

 現在も教員を続けているらしい若人先生(仮名)の名誉のため詳細は伏せるが、理由がどうあれ小学校で担任を持つ教師が失踪したとなれば大事であるし、たとえ本人を責められるような理由ではなかったとしても、保守的なタイプの保護者などから反発の声があがっても不思議ではない。実際、別件でそのような騒動もあったと聞く。しかし、若人先生(仮)は3日後には復帰し、2020年12月現在も教員を続けている。この土地の少々いびつな寛容さゆえの結末だったのかもしれない。

 いま思えば、捨て犬や野良犬が代わる代わる小学校に住みつき、特に係が設けられるわけでもなく、なんとなく全員で世話をするというのが半ば伝統のように続いていたのも、こうしたいびつな寛容さを示す一端だったように感じる。犬たちは近所の家や教員にもらわれていくか、学校の敷地に住みついたまま生涯を終えるかのどちからであったが、せっかく村上春樹の『風の歌を聴け』を模して文章で書き始めた日記なので、今も残る犬の墓前に次のような言葉を添えておこうかと思う。

 

「夜の闇の深さに触れた者は、昼の光の陰にも深い闇を勘繰りだす。」

風の歌を聴け (講談社文庫)

風の歌を聴け (講談社文庫)

 
チップス先生、さようなら (新潮文庫)

チップス先生、さようなら (新潮文庫)