諦めなければ叶っていなくても叶ったと錯覚し易くなる

 「異星人は存在する」と強く信じている者は、たとえそれが実際にはただの鳥だったとしても、何かよくわからないものが飛んでいるのを目にすれば異星人の乗り物としてのUFOだと確信し易くなる。

 NHKの『最後の講義』でみうらじゅんが説いた「走馬灯を盛る」という話にも繋がるが、誇大妄想や幻覚でも構わないのであれば、たしかに「信じ続けること/諦めないこと」によって夢が叶う確率はぐんと上昇するだろう。

 眠っている間に見る夢の中の1時間は実際には数分程度というのもよく聞く話で、もし今際の際に一生分の幻覚を見ることができるのなら、生きている間に理想の自分史をしっかり構築しておくことで、みすぼらしい現世への執着など綺麗に捨て去り、最高の気分で逝くことも可能かもしれない。エンディングノートよりも早い段階から、この偽自分史の制作には着手しておくべきだろう。なるべく精巧に書き上げ、熟読し、脳みその奥底まで染み込ませなければならない。理想の走馬灯のためには現実での努力など二の次である。

 問題は死ぬまでの間に何度も我に返って虚しい気分に陥らねばならないことだろうか。その度に死にたくもなるだろうが、刷り込みの中途半端な状態では現実だけでなく走馬灯もみすぼらしいものになってしまうだろう。理想の走馬灯への道は険しい。

 そう考えると、理想的な(架空の)走馬灯を見るのにも、それなりに現実を楽しく生きなければならない気がしてくる。もしくは、生きている段階から架空の自分史を信じ込むかだが、それはさすがに危険であろう。じゃあ結局、八方塞がりじゃねえかと言いたくなるような状況にある者も少なくないだろうし、それこそ死んでしまいたくもなるだろうが、やはりそれでは現実も走馬灯も惨たらしいものになってしまう。

 さて、どうしたものか。結局、死ぬまで考え続けて、走馬灯すら「理想の走馬灯を見るための方法を考え続ける自分」で埋め尽くされているかもしれない。