責任はなくても残念ながら関係はある

 ワクチン接種の「特別枠」という流れに至り、ついに辞退を求める声がアスリート個人へ直接届けられるような事態になった。東京五輪開催反対を訴える為の抗議方法としては不適切だと思うが、しかし「アスリート個人は関係がない」という擁護の声にも首肯はできない。大きな権限や責任があるかどうかは別としても、関係は大いにある。複雑な心情を吐露した選手らの言葉は、関係があることを重々理解しているからこそのものだろう。逆に言えば、(一切のコメントもせず、自らのトレーニングのみに集中するならまだしも)この状況下で葛藤や配慮の欠片も感じられない発言をするアスリートがいるのならば、それは充分に批判対象となるはずだ。

 もちろん、アスリート本来の使命は目標に向けた鍛錬と本番での素晴らしいパフォーマンス披露であろうし、その為に選手が集中できる環境を関係者や支援者が整えるのも(その役目や価値観を興味のない者にまで強制しない限りは)スポーツに長年嫌悪感を抱いている私でも理解できる。しかし、残念ながら現在の状況は()内の但し書きに抵触しているだろう。

 スポーツを憎む私が、それでもたとえば池江璃花子選手に対して直接辞退を求めようとしないのは、白血病との闘病を経てようやく復帰した者にそのような声を投げかけるのはさすがに忍びなく感じることと、なにより池江選手がコロナ禍での五輪開催に関して全くの無頓着でいるとも思っていないからであり、決してアスリートが問題と無関係だと考えているからではない。辞退を求める声を受けたことに対する池江選手の言葉に関しても、敢えて意地の悪いことを付記すると、本人が実際にどう考えているかは別として、選手たちへの同情を誘うあまり五輪開催反対派をひとまとめに悪者に仕立ててしまいかねない危うさもあると感じた(追記:この記事は5月8日に下書きしたものだが、翌日の朝になって既に「東京五輪開催希望」の署名運動を立ち上げた者がいることを知った。不適切で厄介な抗議方法は往々にして不適切で厄介な反発を生むのである)。

 そもそも、忍びなくは感じても、「諦めずに努力し続けた」こと自体が免罪符になるとは思っていない。それが免罪符になると考えているのなら、それこそアスリート/スポーツ界の特権意識だと思う。私のスポーツに対する憎悪というのは、スポーツ界への優遇のようにしか感じられない場面に幼い頃から何度も遭遇したことが大きな要因である。今回の東京五輪によってアスリート全体への憎悪が拡がることを懸念する声もあり、もちろんそれが良いことなどとは思わないけれども、スポーツを憎み続けた私がまた敢えて意地悪く恨み節を述べれば、「これまでが優遇され過ぎていたのでは?」とさえ感じてしまうのである。

断絶 (エクス・リブリス)

断絶 (エクス・リブリス)