グリム童話を読んでも眠くはならないが「グリム」という名の導眠剤はありそうだ。

 新型コロナウイルスの流行以降、行きつけのドラッグストアに並ぶようになったプロ用の除菌ウェットシートを使って掃除をしているのだが、これであちこち拭くと部屋全体がほのかに病室の匂いになり、幼少期に入院生活の多かった私は懐かしき小児病棟を思い出して妙に落ち着いた気分になる。

 しかし、それでも寝つきが良くならないのは何故だろう。世界が私に冷た過ぎるせいか、あるいは眠る体力すら足りなくなっているのか。そもそも、懐かしくはあっても、病室の記憶というのは具合の悪さとも同義であり、具合が悪いことと眠り易いこととは別の話なのではないかという疑念も沸いてくる。そんなことをあれこれ考え出すと、また安眠からは遠のいてゆく。

 読書が苦手な人のなかには、本を開いて眺めるだけで眠くなるという人もいるらしい。入院中、病院にあった子供向けの本を手にしているうちに割と早めに読書に親しむようになれた私は、よほどつまらない内容でない限り書物自体のせいで眠気に襲われることもない。私が4歳になろうかという頃、父が読み聞かせ用として購入してくれた『世界おはなし名作全集』(小学館)は、私の入院が頻繁過ぎたことと、両親共に朗読に対する自信が低かったため、「読み聞かせ」という本来の目的を成就することはほぼできなかったものの、巻末に中沢新一による各童話作家の誕生した背景等に関する解説が収録されていたこともあり、今なお時折読み返すことがある。結果的には良い買い物だったと言って良いだろう。しかし、これもまた懐かしさに浸ることはできても、導眠効果は得られない。

 厄介なことに、昔の記憶というものは良いものも悪いものも、どういうわけか眠気を遠ざけてしまう。懐かしい思い出は哀しみを伴って結果的に気分を沈め、眠れなくなってしまうし、嫌な記憶は恐怖やら羞恥やらに苛まれてしまう。だったら、昔のことなんか思い出さなければ良いのだが、思い出さずにいる方法がわからない。わかるまで考えるなり調べるなりすべきなのかもしれないが、その行為自体がまた安眠を遠ざけるのだった。