僕らはみんな加害者として生きている

 オリンピック関係者が開催を強行したがる理由が利権/カネであるのならば、もちろん賛同はしないものの、理解できないこともない。儲けられなくさえすれば、あっさり撤回するであろうという意味でも、反対する側としては何かやりようがあると思えるからだ。

 しかし、本気で「スポーツの力」とやらを信じているがゆえの強行なのだとしたら、理屈が通じない分、より厄介である。盲信と言って良い。だったらダークなカネをめぐった恐ろしい陰謀が渦巻いている方が私にはマシに思える。お金は私だって欲しい。

 もっとも、スポーツに限らず「○○の力」などと言いたがる者には、おおむね至上主義的な傲慢さや気持ち悪さを感じる。音楽や文学といった、私が好む世界の話であっても同様である。せいぜい、彼らの言うような「力」が発揮される場合もあるというだけであり、時としては災厄にもなり得る。「平和」「友情」「思いやり」的なワードが散りばめられた楽曲が選ばれ易いクラス対抗の合唱によって、いったいどれだけの人間関係が崩壊したことだろう(例:「もっと声を出せ!」「口をしっかり開けろ!」「どうして真面目にやってくれないの(泣)!」など)。

 他人にまったく迷惑をかけずに生きることなど到底不可能であるし、どれだけ支持する者が大勢いるようなものであっても、どこかにきっと犠牲になっている者がいる。もちろん、だからといって全てを規制することは望まないし、法として定めるべき範囲というのも、個々の問題をそれぞれ議論していくほかない。だが、自分が加害者である可能性というものを全く考慮しない者がいるのであれば、それだけで充分な重罪だと私は思う。

 

(追記)ニュースなどでよく聞く「日本中が熱狂!」といった言葉だが、「日本中」というのは、人口の何%が該当すれば使用して良いとされているのだろう。明確な基準などないのはわかっているが、大抵「日本中」から外れているため、ずっと気にはなっている。

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