もっと考えれば特別なほどの憎しみが

 新型コロナウイルスを「風邪」程度のものだと本気で考えている人たちが東京五輪の開催に肯定的であるのは、賛同はしないものの、ロジックとしては理解できる。本当に現状が「過剰な恐れ」であるのならば、たしかに開催に問題はないだろう(まあ、コロナを抜きにしてもオリンピックには色々と疑惑や問題点があるし、元々スポーツに対して嫌悪感の強い私が応援に回ることはないのだけれど)。

 それよりも、コロナウイルスの危険性を理解していると言いつつ、東京五輪の開催には賛成する、あるいは強い姿勢(テロ的行為やあまりに酷い言葉は論外としても)で反対することに批判的な人たちの存在が理解に苦しむ。憶測だが、中立や冷静さといったものをはき違えているような気持ち悪さを感じる。以下は、Twitterからの引用である。

 

 

「自分や子供の関わる楽しみにしていたイベントが中止になって「なぜオリンピックだけ」って考えに誘導されてる人がけっこういるけど、オリンピックだって無観客とかいろいろ工夫して形を変えて開催を目指しているところだと思うよ。他のイベントができなかった理由はそれぞれあるだろうし。」 omion@16331633

 

「なんでか、オリンピックやパラリンピックに出場するアスリート達の気持ちや言葉は大して注目せず、決定権が全くない国や別の行政機関のせいに責任転嫁しようとするメディアや関係者、一般人が多いんスよね。 ちょっと調べれば、ちょっと角度変えて観れば分かる仕組みを見てないてか目を反らしてたり。」 べるーじ@woodoragon

 

 

 前者に関しては、まずイベント等の自粛要請は基本的に罰則がなかったので、たしかに開催する方法もあったろうし、実際に開催された例もある。しかし、ここでオリンピックに強い憎悪が向けられてしまう理由は、感染拡大を抑えるための自粛要請に従った側からすれば、終息どころか再拡大の様子さえ見受けられるなかで「特別な催し」(実際にこのような発言をして大批判を受けた元JOC参事がいたらしい。それ以外にも、「犠牲は必要」などといった発言をする関係者が存在している)としてオリンピックが強行されるからだろう。タイミング良く、五輪開催直前にコロナ禍を終息させることができたとすれば、それは確かにコロナに打ち勝った証としての大会になり、大会後には通常の生活も戻ってくるわけで、そうであれば私のような当初からスポーツに強い憎悪を持った者でない限り、ここまで強い反発を招くこともなかったはずだ。だが、現状はそうではない。どんなイベントや商業行為も中止が最も効果的な感染対策となる(それでいて保障は不確か)状況のなか、オリンピックだけが国のバックアップや市民の(半ば強制された)犠牲によって開催されるようなものなのだ。この期に及んで無観客という工夫(というより、最低限度以下の対策としか思えないが)にさえ不満を漏らすような関係者さえいるのだから、「なぜオリンピックだけ」という考えに囚われるのも不思議だとは思えない。だいたい、“特別”ではないイベントや商業活動がどれだけ感染対策を徹底したところで、当たり前の話だが感染拡大を完全に防げるわけではなく、主催側に非がなかったとしても、もし感染者がその場で増えたとなれば世間の目も厳しくなり、業界の今後にも大きく影響する。もちろん、それはスポーツ界も同じはずなのだが、関係者による“特別”“必要な犠牲”といった発言に特権意識を読みとるなと言うのは無理である。

 そして、責任転嫁云々に関しても、決定権がなくとも日本で大規模に行われる世界的催しに日本政府が無関係でいられるはずはなく、新型コロナウイルスの流行を充分に抑え切れていない状況で明確な科学的根拠も示せないまま東京五輪の開催だけは強行するような姿勢(仮に、そのつもりがなかったとして、そう捉えられてしまうようであれば同じ事である)を見せられてしまえば、不満や反感を抱くなという方が無理だろう。実際の胸の内などテレパシー能力があるわけもなく完全に理解することなどできないので、たしかに菅首相を気の毒に思うこともあるし、人格を完全否定するような物言いには眉をひそめることもある。だが、政府もアスリートも無関係などではない。決定権はなくとも、やはり当事者ではあるだろう。“ちょっと調べれば、ちょっと角度変えて観れば分かる”と言うが、“ちょっと調べて、ちょっと角度を変えた”だけだから、その程度の反論を吐けるのではないかと思ってしまう(ついでになるが、真面目に主張したいのであれば「多いんス」などという小馬鹿にしたように感じさせかねない文章は控えてほしい。予測変換の影響もあって誤字脱字も増えやすくなるだろう。もっとも、そういった文章的な心配りが欠片も見当たらない時点で、読み手も真剣に受け取る必要はないのかもしれない)。