国立競技場のアラン・スミシー

 小山田圭吾氏が辞任したかと思えば、別の形で絵本作家のぶみが東京オリンピックパラリンピックに関わっていることがわかり、多くの人が「次から次へとよくもまあ……」と思ったことだろう。幸いと言っていいのか判断に悩むが、小山田氏の前例を見て本人か関係者の誰かが怖気づいた(倫理観を働かせたとはちょっと思えないので敢えて嫌味な言い方にした)のか、あるいは何か別の魂胆でもあるのか、すでに辞退した模様らしい。逃げ足は速い。

 それにしても、人間性はともかく、音楽家としては高く評価されていた小山田圭吾に比べ、作品そのものへの批判も多かった絵本作家のぶみが選出されていたのは、関係者のほとんどが彼の信者なのか、はたまた恐ろしく見る目がないのか。しかし、野村萬斎小林賢太郎も選ばれていることから考えると、NHK、特にNHK Eテレの番組に関わっていたクリエイターのなかから、知名度や作品の売上程度の基準で適当に選んだのではないかと思う。小山田圭吾、のぶみの両名がEテレの番組に関わっていたことをあげ、NHK全体を揶揄するような発言も見受けられたが、色々と問題はあるにせよ、NHKだって一枚岩ではないし、出演者・関係者には、これまでのオリンピック・パラリンピックに関する一連の不祥事とは縁のない、あるいは真っ向から反対の立場であったような人も大勢いるだろう。オリンピック・パラリンピック自体には真面目に頑張っている関係者やアスリートもいるとして擁護しておきながら、他のこととなると十把一絡げに否定したり、否定に同意したりする者が自分のなかでどういう整合性を保っているのかが気になる。

 また、「小山田圭吾に比べればのぶみはマシ」という意見にも首肯しかねる。別に「小山田圭吾の方がマシ」と言いたいわけではないが、それぞれの告白内容と態度を見ると、どちらの方がマシなどと判断できるものではないと思う。強いて言えば、作品自体でも多くの人を傷つけたであろうのぶみ氏の方が悪質(実質的な被害者は多いのではないか)という指摘はあり得るだろうし、一考に値する気もする。いずれにしても、どちらの方がマシかという点を殊更強調する必要があるとは思えないし、そこに妙なこだわりを感じさせる言説には、どちらか個人、あるいはジャンル全体への贔屓のようなものがあるのではないかと邪推させられる。

 

 余談だが、佐村河内守騒動の際、作家に不祥事があっても作品そのものを封印させたくない場合、ゴーストライターが存在したことにするというやり口もあり得るのではないかと考えたことがある。そんな「仕立て上げられたゴーストライター」に関する物語も構想してみたが、才能と努力の不足によりいまだ形にできていない。さらについでだが、小山田圭吾の後任として岡崎体育近田春夫眉村ちあきといった、ゴキゲンな(死語)方々が名乗り出ているけれど、新垣隆の名前が見当たらない。