バックドロップ中にドロップを舐めるのは当然危険である

 龍角散が「こっそりなめられる」を売り文句に「のどすっきりタブレット」のCMを放送し始めたのは、2018年の熊本市議会における「のど飴騒動」(質疑中にのど飴をなめていた議員が退席を命じられた騒動)がきっかけだったはずで、この騒動に関しては「日本社会の融通のきかなさの象徴」といった声があがり、私もそれに同意する。品位というのなら、居眠りや野次のほうがみっともないとも感じる。コロナ禍の現在からすれば、もはや忘れられた騒動のようにも思えるけれど。

 もっとも、飴をなめながら会話することが良いことではないと考えられはじめた原因は、おそらく不意に喉に流れ込んで窒息するといった危険が高そうだからではないかとも思われ、だとすれば何故「品位」だの「行儀」だのといった、わざわざ理屈から遠のきたがるような言い方をするのだろう。これは、なにも「のど飴騒動」に限ったことではなく、規則と呼ばれるものには、本来それが定められた理由があるはずなのに、それを説明することもなく、いつの間にか「規則を守る」ことだけが求められ、しまいには必要性のない規則が乱立し始めたりもする。ブラック校則などは、その典型例と思われる。「校則ではなく拘束」などという駄洒落も、おそらくすでに手垢のついた言い回しになっているだろう。それにしても、理屈や説明を放棄したがるのはなぜなのだろう。

 さて、のど飴といえば、私はビートルズがファーストアルバムのレコーディング中、ジョン・レノンがのど飴をなめながら歌っていた(特に「ツイスト・アンド・シャウト」は喉がいかれるので、最後でなければいけなかったらしい)と聞いた時、舌が器用なのだなと感心したのを覚えている。喋るだけならともかく、歌いながらとなると、喉に詰まらせずにいられる自信がない。日本人がLとRの発音の違いを会得するのを苦手とするのは、日本語では馴染みの薄い舌の動かし方だからだろうが、ひょっとして英語に馴染んだ者の舌ならば、のど飴をなめながらの歌唱も容易だったりするのだろうか。だとすれば、「海外(英語圏)では良くても、日本では駄目」とする論拠の一端にはなるのかもしれないので、品位や行儀を大事にしたい方は、是非そのあたりを真剣に研究してみてほしい。私はしませんが(結果だけ教えてください)。

プリーズ・プリーズ・ミー

プリーズ・プリーズ・ミー

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