車は“悪魔”でも快適に暮らす道具(狭い日本を急ぎ過ぎた悲劇)

 煽り運転に関する報道が話題になるたびに、被害者側の過失を指摘する声もあがり、たしかに非があるように思えるものも少なくないのだが、わざわざ「煽らせ運転」などという言葉を使いたがる者を見ると、「あんたはきっと頻繁に煽っているのだろうな」と邪推したくもなる。しかし、いずれにしても感じるのは、悪質な煽りを行う者はもちろんのこと、煽り運転を誘発させかねない過失を起こし易い者、相手に非があったからといって煽り行為をする者、そして煽り被害に遭った際に冷静な対処ができない者、こういった者全てが、本来なら自動車の運転免許を持ってはいけないタイプの人間だろうということだ。

 悪質な煽り行為の被害に遭っても冷静さを失わずにいられる者は多くないとは思うが、しかし、自動車の運転というのは、その程度の技術と心構えの者に任せて良いものではないはずである。旅客機のパイロットが客より先に大パニックに陥っていたら、きっと非難されるだろう。無意味なほどの重低音を響かせながら、目立つことばかりに気をとられているような馬鹿が、ジープやらスポーツカーで我が家の前を通り過ぎているような日常はそもそもおかしいと思うのだ。

 何度も述べていることだが、やはりこの国は自動車(あとは酒)に毒され過ぎだと思う。上記したような者たちが運転免許を取得していること自体に問題があるし、そうならざるを得ないほど自家用車に依存させた社会こそ諸悪の根源だろう。公共交通機関が充実していない地方では、自家用車がないと不便なのは確かで、そういった事情から車嫌いの私でさえ周囲の圧力に屈して運転免許を取得してはいるものの、いまだに何故自分程度の技術で取得できてしまったのか理解に苦しみ、ゴールドペーパードライバーを貫いている。

 自動車の危険性に無頓着なまま、いきがって走り回るような連中に対する憎悪は、私のなかでスポーツ至上主義者たちへの憎悪と同等に長年煮えたぎっている。ヨーロッパのラリーで沿道の観客が粉塵のごとく撥ね飛ばされる様を衝撃映像特番などでよく見たが、自動車運転の危険性を軽視する者たちにも是非体験させてやりたいとすら思っている。