「降霊ドライバー」という不穏な誤変換

 通院先までの道のりは、やたらと免許を返納したほうが良いのではないかと思わせられる高齢ドライバーに遭遇する。ゴールドペーパードライバーな私では対応する自信がなく、バスやタクシー、あるいは同日に用事のある身内などに乗せてもらっている。

 しかし、いくら自分が運転せずとも、不安を感じる事態がこうも多発しては、せっかく心のケアのために通院しているのに、その道のりで精神を削られまくりで、ひょっとしていつも主治医に身体の状態を満足に伝えることができずにいるのは、そのせいなのではないかと、「あまり考え過ぎないように」と忠告されているのに、余計なことをあれこれ考え出してしまう。

 幸い、多少診察予約時間に遅れるのは、システム上特に問題はないらしく、そのことで気を揉む必要はないそうだ。だが、身の危険に関する不安は拭えない。かといって、通院をやめるわけにはいかない。

 それにしても、自分の運転技術に自信があったところで、これほど危険な運転手が氾濫しているのならば、よほどの必要性がない限り、自動車の運転など遠慮したいと感じるのが自然な感覚のように思うのだが、なぜ世間はそうでもなさそうなのだろう。この危険地帯でも、喜んでハンドルを握りたがれるような神経の図太さ(図太いのか、そもそも“無い”のかはわからないけれど)があれば、そもそも通院の必要性もなかったのだろうが、“死に易さ”と“死なせ易さ”が過剰に添加された状態の“生き易さ”が羨ましいかと問われれば、それは全く理想的とは言えない。ならば、たとえ生き辛かろうと、せめて“死なせ易さ”だけは回避しておきたい。それを(間違いであろうと)「優しさ」だと捉えてくれる人がいれば幸いである。