想像してごらん。世界のクロサワに家を壊された者が映画を楽しめるかどうかを。

 「やってみなくちゃわからない」と助言するからには、「やってみたけど駄目だった」場合の責任をとって欲しいと思うわけで、ゆえに私は、たとえ「やってみなくちゃわからない」という考えが浮かんだとしても、自分だけの問題ならばともかく、他人への助言となると確実に責任がとれる場合以外には、決してその台詞を軽々しく口にしないよう心掛けている。

 そもそも、私には「責任恐怖症」とでも呼ぶべき性分があるようで、一時は「映画を撮りたい」とたしかに考え、映画の専門学校にも入学したものの、今では「やっぱり無理」「才能の有無は別としても、どうしても関わるのなら脚本か原作だけ」と心に決めているのも、この性分ゆえである。脚本/原作だけであれば、うまくいけば自分だけの責任にできるし、責任の範囲が広がっても、その作品の制作関係者までで済ませることが可能だろう(それも充分に重いが)。しかし、撮影現場に出向くとなると、近隣への撮影交渉、時には一般車両を停めさせてもらったりと、映画関係者以外への責任がわさわさと生じてくる。古いタイプの横暴な映画人が現場で権力を発揮していたりすると、「あの家の木が邪魔だから切らせてもらえ」だの「向こうに見える家が邪魔だから二階だけでも壊せ」だのといった無茶な要求が飛び交う可能性も高く、板挟み状態で精神を病み、その先に見える未来は自分が死ぬか、周りを殺すか。まあ、後者の場合の最終的な責任も自らの死ということになるだろうから、結果は基本的に同じである。だが、私の死を持って償おうとしたところで、奪った命は戻ってこないし、壊した家は元通りにならない(どれだけ精巧に再現しようとも、まったく同じにはならないし、一度自宅を壊された家主の心の傷を埋めることもできない)。

 「命を懸ける覚悟がないなら映画製作など関わるな」という意見もあるだろうが、確かに命を懸けた芸術家に対する憧憬のようなものは私にもあるけれど、しかし、こと映画製作において上記したような無茶な要求を実行させられるのは、監督でも脚本家でもなく、いつか自分の思い描く映画を撮るために頑張っている助監督をはじめとした末端のスタッフたちである。経済的な面のみを考えても、そう容易に責任がとれる立場ではないだろう。

 このような不条理と言っても差し支えない責任の在り方は、映画製作に限った話ではなく、必死に責任をとらなければならないような事態を避けて生きていても、とれるはずのない責任を負ってしまう可能性に世界は満ち満ちている。それに気づいていながら、さして大きな不安もなく生きていけるというのは、よほど人生に余裕があるのか、はたまたとんでもなく無責任かのどちらかではないかと思う。

(余談:改めて考えてみると、たとえば植木等が演じつづけたような無責任男というのは、責任をとらなくても済むよう立ち回ることに長けているだけで、とるべき責任を放棄したり押し付けたりしているという印象は薄いように感じる。むしろ、一連の無責任シリーズに眉をひそめていた者のほうが、実際は無責任だったのではないかとさえ思う)