信じることはできないけれど、信じたいのは嘘ではない

 「“あの人のことを悪く言う人はいない”というのは、周りに他人を悪く言うような人がいないということ」といった旨の発言を耳にしたのだけれど、周りの人間が“あの人”以外の悪口を言っていないのかどうかなど確認しようもないので、それがわからない限りは希望的観測でしかない。そのように思って周りと接すること自体は悪い事ではないだろうが、定義にまでされるのは困る。そうやって罪人を罪人と知らずに庇った者たちも大勢いたことだろう。

 まあ、人間の思考の癖というか感情の癖とでも言うべきものかもしれないので、多少は仕方のない面もあるのだろう。しかし、普段は他人の「身内擁護」を鬱陶しいほど厳しく批判していた者が、いざ自分の信じる対象への疑惑となると、急に支離滅裂な呟きを投下しはじめる姿は大袈裟ではなく吐き気を催す光景で、もしも私が突然、犬や猫を虐殺するような凶行に及んだとすれば、それはきっと上記したような振る舞いを見せる者のSNSアカウントのアイコンが犬や猫だったせいである。勿論、それで私の罪が軽くなるわけではないし、決して許される行為ではないのだが、原因の一つであることは確かである。そうならないために、さほど動物好きでもないのに、動物が好きになりそうな映像やお話を積極的に摂取したりもしている。この涙ぐましい努力を誉めてくれる人がいたなら、私はその人のことを「信じたい人リスト」に加えるだろう。

 なぜか話が、私が動物愛護法に抵触する危険があるかのような流れになってしまったが、罪なき動物たちが身勝手な八つ当たりを受ける悲劇を避けるためにも、SNSのアイコンは自分自身の姿以外では、何の生物も企業も関係のない無機物や文字にしておくのが良いかもしれない。普段からそこまで考慮して生きている相手であれば、これもまた私の「信じたり人リスト」の候補となるだろう。