絵を描かされた子供たち

 白い画用紙に黒色で斜面を表す線を一本描く。線の上には先の曲がった板を足に装着し、両手に棒のようなものを持った人間らしき形を描き、あとは左上か右上の余白に記号的な太陽を描いておく。これで3・4時間目「ずがこうさく」の授業での課題「スキーきょうしつのえ」は完成である。

 これは小学校2年の時、図画工作の担当教師(教頭先生が担当だった)が“卒業すべき絵の描き方の例”として語っていた内容である。決して、ここまで適当な絵を提出した過去が私にあるわけではない。いくら絵が苦手で先生も温厚な方だったとはいえ、あからさまに手抜き丸出しな代物を授業で提出するほどの度胸はなかった。

 ゆえに、それなりに真面目に頑張って描こうとするのだけれども、いかんせん苦手なものだから早く片付けてしまいたくなるし、かといって冨樫義博じゃないのだから、誰が見ても未完成な絵を提出することもできない。そもそも、未完成状態でも冨樫義博ほどの画力があれば苦労はしない。下手な人間が自己判断で上手に描こうとすると余計に悲惨なことになり、最悪の場合、教師に叱られ級友に馬鹿にされ、親に先立つ不孝をお許し願わなければならなくなる。結局、真面目に取り組んだ様子を匂わせつつ、下手なりにも酷く馬鹿にされる心配の少ない略画的措置で大部分を誤魔化したものを提出するわけだが、これが義務教育期間ずっと続くのかと思うと、やっぱり先立つ不孝をお許し願いたくもなった。

 他人が見て感心するほどのものだったかは別として、作文であればまったく苦に感じることはなかった。周りは絵よりも作文を苦手としている者が多かったように記憶しているが、義務教育期間中の作文というのは、たまに自分で朗読させられることがある程度で、あとは学級文集や学校文集に掲載されるだけであり、優劣に関わらず、そうそう級友の目に触れるものではない。傍から覗き見するだけで、ある程度の技量が分かってしまう絵のほうが、苦手とする者の心理的負担は大きいように思う。そうでなければ、作文がまったく苦に感じなかった私が、そのことで良い思いをした記憶がないことの説明がつかない。学校便り等の面倒な文章仕事を回される機会が増えただけである。

 もちろん、全ての学校や地域がそうだとは思わないが、勉強ができないよりも運動ができないほうが馬鹿にされ易く、文章が下手であるより絵が下手なほうが馬鹿にされ易い傾向が強いような気がしてならない。自分が貧乏くじを引かされたような経験ばかり思い返してしまうせいだろうが、いまだに逆のタイプの人間を目にすると抑えがたい憎しみが湧き上がってきてしまう。(追記:SNS上でよく見かける、思慮の浅さを可愛げで装った絵柄によって誤魔化したようなコミックエッセイもどきに嫌悪感を抱き易いのも、きっと同じ理由だ)