『今日までの夜に見た夢に彩られた走馬灯にも似た自分史』(54)

 従兄弟は遊園地理論の誰かが言うような「ある種の子供」ではなかったのだろう。私が歳をとるにつれて、あの日のメリーゴーランドやそれに近しい雰囲気のものを「不気味だからこそ惹かれる」と感じるようになったのに対し、従兄弟は単に遊園地を子供っぽいものとして見下げるようになっていった。従兄弟が遊び相手にしていた半野良の猫リビは、どちらかといえば私の傍でじっとしていることが多かったのだが、従兄弟の忘れた鞄を届けに行った時、偶然出くわしたリビは突然、私の左脚に噛みついて離れなくなった。半野良の雑菌が恐ろしくなって、口を無理矢理こじ開け、払い退けて逃げ出した。リビとはそれ以来、なるべく出くわさないよう気をつけたが、半年ほど経った頃、小麦の乾燥工場の裏で息絶えているのを見つけた。母が後で埋葬したらしいのだが、その場所はわからない。従兄弟に原因があるのではないかと思いつつも、猫の祟りが怖く、自分にも問題があったのではと10年近く怯えた。

 狐を死なせた男が亡くなった時、男の娘が狂ったように泣きながら「連れていかないで」と叫んでいたという話は、小学3年の時に担任から聞かされた。しかし、仮に自分が連れていかれても、おそらく自分の死を悲しんでくれる者もいないだろうと思いあたり、祟りの怖さは消えたが、全てが虚しくなった。小学1年の冬、凍った川に落ちて担任の信用を失ったモウダは、すでに自分の恥ずかしい記憶など忘れ去っていたようで、掃除の時間にモップを奪い取ることに躍起になっており、私はそんなモウダの姿を見るたび、腕に爪を突き立てて苛立ちを抑えた。青い血管が飛び出ても誰も気にかけないと分かっていた。モウダの父は品のないスポーツカーを乗り回すような人間で、通学路の桜が散った一因でもあった。タッちゃんの家の飼い犬が発煙筒を咥えてモウダの父の車の下に潜り込み、ニエの家の“三十五”が廃油をかけて消毒したのを見た時、私以外の何人かが喜びを隠さずにいたのは、生涯屈指の嬉しい記憶である。