『今日までの夜に見た夢に彩られた走馬灯にも似た自分史』(73)(完)

 Tの亡骸を過ぎると、ひび割れたアスファルトの道路に潰れた柿の実が点々と転がっていた。この土地には柿の木などないはずだが、海を挟んだ土地の柿を吸い寄せてしまうほどの事態だったということだろうか。柿は苦手なので勿体ないとは思わないが、Tの家の白い犬が実と間違えてTの一部を齧っていた。何に怯えていたのか、私はやむを得ず学校を辞めなけれならなくなる夢を何度も見たが、自分の思う以上に人恋しかったのか、Tにまで理由を打ち明けていたこともある。夢の中のTは生返事をしただけで、転校してきた今は20代半ばの女優との接触の機会ばかり窺い、2人が目立たぬ場所へ向かう場面もあった。ゆえに飼犬に餌になるTの姿は、生涯最高の光景とも思えたが、それが生涯最高となり得てしまう自分の人生に気づくと泣かずにはおれず、他人とはぐれて以来避けていた海岸まで疲れることもなく辿り着いてしまった。1500ヘルツほどのさざ波が5分おきに聞こえるだけの海岸は何を諦めるにも最適だった。

 アインシュタインに似た老人が砂浜に古めかしい木製の椅子を置いて思索に耽っていたので、そっと近づいてみると8までの数字で挨拶してくれたので、私も8までの数字だけを使って会話した。2、3、4は必ず使用し、1のない会話には驚き、8までが使用された時には静かに高揚した。最後の会話に相応しい。

 薄暗い倉庫のような部屋の中心に置かれた木製テーブルの周縁に左脇腹を押し付けながら何回転ほどしたことだろう。3歳頃に見始めた景色に戻ってきた私は、これまでに見た夢なのか未来なのか過去なのか判然としない光景から考えるに、このまま脇腹に血が滲もうと歩みを止める必要はないだろうと判断した。走馬灯にも似た光景が途絶えてから3分以上、そのまま周縁を廻り続ければ命を終えられる仕組みらしいが、「やめるなら今だ」という声も聞こえず、3歳頃までは傍にいたはずの両親も、諦めてしまったのか姿が見えない。眠りと似たものだと誰かが言っていた。そういえば、なんだか眠くなってきた気もした。