1月15日 晴れ時々曇り あなたに知られて嬉しい事など一つもありません。

 小学4年の一時期、日記を毎日提出するという課題があった。全国的なカリキュラムだったのか、当時の担任独自のものだったのかは分からないが、学校教育としての必要性の方もいまだに分からない。

 日記自体は小学校入学前から書いていたが、あくまでも自分の生活の記録と雑感を記したものであり、他人に読ませるつもりなどない。はじめから出版を視野に入れた著名人の日記や資料価値のある人物の死後に発見された手記といったものは例外としても、日記とは本来そういうもののはずで、他人の目に触れるとなれば、大抵の人間は文章力や表現力の優劣はあれど、内容も文体も多少の演出や選択を施すはずだ。それならば、学校行事が終わるたびに書かされた「作文」と変わらない。

 ゆえに、「日記」と称しながら、誰もが“担任教師に読まれても構わない内容”の文章を考えざるを得なくなる。深刻な悩みを書き綴ったところで、解決にならないどころか、頼りない小学校教師の浅知恵によって状況が悪化する危険性の方が高いようにさえ思う。ただひたすら“その日にあったこと”を書くにしても、知られたくないような出来事もある。やましいことでなくとも、その日の食事内容や体調などを細かく知られるのは気持ち良いことではない。

 かといって、「今日は特に面白いこともありませんでした」というような、適当な一文だけで提出すれば、「日記とはそういうものではない」などと赤文字を入れてくるわけだが、そんなことは重々承知なのである。よほど「日記とはそもそも他人に見せるものではないと思います」と書いて提出しようかと思ったが、面倒なことになるのが容易に想像できたので、結局は「小学生が書き得そうなレベルの日記」を虚実織り交ぜて創作するわけだが、「小説」とまでは呼べずとも、ちょっとした物語を創るような授業もあったわけで、なぜわざわざ日記の提出という形で似たような頭の使い方をさせられたのだろう。まさか、面倒な上司に提出するビジネス文書的なものの訓練だったのだろうか。だとすれば、随分とまわりくどい教育法だと思う。