「お前らなんか友達じゃねえよ」

 「国民的アニメ」と呼ばれるために必要な条件は何かと考えると、まず知名度、そして人気、あとは放映期間がある程度長いこと、対象年齢が広い、といったところだろうか。挙げられる作品の常連は『サザエさん』『ドラえもん』『ちびまる子ちゃん』『クレヨンしんちゃん』(考えてみれば、アニメオリジナルのエピソードが多くあるとはいえ、原作は漫画である。そして、今となっては全て作者は故人である)あたりで、人気作でありながら『名探偵コナン』が挙げられていない場合を目にするのは、やはり作中の死者の多さが関係しているのだろう。「国民的」という言葉には、どうしても個人的な好みや単純な人気だけでは推薦できない壁のようなものを感じる。

 圧倒的知名度を持ちながら、『コナン』以上に「国民的アニメ」の枠から漏れがちに思えるのが『それいけ!アンパンマン』で、一部の映画版等に評価の高いものがありつつも(2006年の劇場版『それいけ!アンパンマン いのちの星のドーリィ』は、たまたま家で観始めたさまぁ~ずの三村さんが夢中になったことでも有名)、やはり基本設定が幼児向けである印象が否めない。自分の記憶を振り返ってみても、小学校に入学した途端に、周りから『アンパンマン』の存在はほぼ消え去ったように思う。おおむねの視聴卒業時期は、『おかあさんといっしょ』と同じ頃だろうか。

 中学時代、ごく一部の級友たちの間で、童謡『一年生になったら』によって、人生から『アンパンマン』が追い出されたのではないかと話題になったことがあった。つまり、あの歌によって人は幼児から児童へと追い立てられるのである。やはり、「ともだちひゃくにん できるかな」なんて歌詞は、愛と勇気しか友達がいないらしいアンパンマンを支持しながらは歌えない。物でも空想でもなく、概念を友達だと言い張るのだから、多数の児童を一つの部屋に押し込んでまで集団行動をさせようとする学校教育とは相容れないのだろう。個人的には、「ボールが友達」の某少年より好感は持てるのだけれど。

 しかし、むやみやたらに友達を増やしたせいでトラブルに巻き込まれた者や、勝手に裏切られただの何だのと逆恨みした挙句、汚物にも劣るような最低の醜態をさらし続けるような者たちの姿を見ていると、「ともだちひゃくにん」が素晴らしいことだとはいまだに思えないのである。