時間が解決するどころか新しい悩みを増やしていく

 30代も後半となると、できれば思い出したくもない、しかし人として後悔し続けるべき記憶というものが数えきれないほど溜まっていく。清く正しく生き続けた者であれば、そんな記憶も数えるほどしか存在しないのかもしれないが、清く正しく生きていると自負しているらしい人物が清く正しい人間に思えたためしは皆無と言ってよく、単に都合の悪い記憶を忘れ去っているだけの可能性が高い。

 さて、そのような後悔し続けるべき記憶のなかでも重く圧し掛かるのは、やはり無神経な言動によって他人を傷つけてしまったであろう記憶である。もちろん反省の気持ちもあるのだが、なにかの縁で傷つけてしまったはずの相手と再会した時に報復される恐怖だってあり、さらに言えば、その報復は甘んじて受け入れるべきではないのかと考える冷静な精神状態の際の自分と、しかしいざ報復の矢面に立たされた時、抵抗せずに居られる自信などあるのかと問うてくる、もっと冷静な自分がいたりして、自己嫌悪やら人間不信やら、あれこれどうにもならなくなり、結局は導眠剤の力を借りて丑三つ時ギリギリくらいのタイミングで強制的に眠ることになったりする。

 無神経でいられれば楽だろうが、無神経な人間にはなりたくない。なにより、いざ世の中が良くなっていった際に、それまで無神経に生きてきた自分が優しくしてもらえる気がしない。そこまでの無神経ではいられない現在の自分でさえ、さらに無神経な人間に対して優しく接することなど到底できないのだから、今より無神経さが拭き取られた社会において、無神経を極めた自分が生き易くなっているとは思えない。

 しかし、現状は結局のところ、そんなことすら微塵も考えない、極端に無神経な人間だけがヘラヘラと楽に生き続け、清く正しくはなく、あくまで自己中心的ではあっても、そこまで無神経にはなり切れない大部分の者たちが、あれこれ苛まれ続けているのだろう。もちろん、「社会なんてそんなものさ」と割り切れるほど達観することもできないのである。