思考の肥やしにならなかった「かけがえのない思い出」たち

 学校教育に関わろうとする者の大半は、概ね学校生活が楽しかった者たちだという話がある。統計学的なデータがあるわけではないだろうから、「なんとなく共感を得られ易い主観」くらいのものではあろう。しかしながら、私自身もそういう面は多々あるのではないかと感じる。

 多少の苦手要素やいくつかの辛い経験は、どれほど上手に人生を渡り歩いている者にも有り得ることで、ゆえに「概ね学校生活は楽しかった」と振り返られる人間の数は、ひょっとしたら過半数を越えるほどの割合かもしれない。少なくとも、私の小・中・高を振り返ると、周囲には「楽しそうにみえる」者のほうが多かったように思う。私自身は「楽しい記憶もあるにはあった」程度の印象であるが。

 それゆえなのか、不登校支援の話題になると、それぞれの境遇に理解があるように振る舞いながらも、結局はどうにかして身体そのものを学校へ向かわせようとする者が少なくない。試験的なアバター登校の話題が地元新聞にも載っていたが、わざわざ登下校中の(あくまでも本人にとっては)「かけがえのない思い出」とやらを引き合いに出してきて、身体性が決定的に欠如しているなどと苦言を呈する内容になっていた。「昭和だなと思われるだろう」などと自虐的に結んではいたが、それは「昭和」なのでなく、地獄に等しい学校生活を送っている者の存在を想像するだけの知性がないだけではないのか。

 そもそもアバター登校など選択肢の一つなわけで、全員がそうなるべきとまでの主張は少なくとも主流ではないだろう。それに、アバター登校では上記されていたような「かけがえのない思い出」が作れないというのも貧困な想像力だと思う。たくさんの「かけがえのない思い出」を得た割に、考え方の幅は狭いままなのだなと昭和末期生まれの私は意地悪く考えたりもするのだった。