それはたぶん、平和を愛する者で居られること自体の優越感

 今更ではあるが、映画『オッペンハイマー』(2023年/監督:クリストファー・ノーラン)に関する話である。映画に対しての鑑賞姿勢において、個人的にはある程度の信頼を寄せている批評家や知人による評価に、日本公開前より懸念されていた「広島・長崎への原子爆弾投下の惨状が描かれていない」という点をもって作品を批判しているものは今のところ目にしていない(別の視点からの批判はある)。しかし、公開前の関係者の懸念をそのまま写し書きしたような批判も少なくはないようで、とりわけ地元の新聞に寄稿するような、いわゆる「地方文化人」と呼ばれそうな人物たちによる否定的評価は私もいくつか目にした。なかには本当に作品を鑑賞したのか怪しいものもあったが、それは論外としても、この「関係者すら想定済みの炎上懸念案件」にこだわる人たちの考え方というものが、作品の是非以上に気になってしまった。

 上記の点を主軸とした作品批判の言わば「後ろ盾」として多く引用されるのは、(主に戦勝国側の)原爆投下が第二次大戦を終了させたという主張によって展開される容認論/肯定論である。映画『オッペンハイマー』が、こういった容認論/肯定論を結論としているわけではないのだが、広島・長崎の惨禍が充分に伝えられていないがゆえに、このような考え方が蔓延るのだと批判側は訴える。映画『オッペンハイマー』は、そういった状況の結果であり更なる助長でもある、と。しかし、仮に映画が広島・長崎の悲劇の描写に時間を割いたところで、容認・肯定論者の考えを簡単に変えることは出来ないように私は思う。いかに悲惨な出来事であれ、「原爆投下が終戦をもたらしたか否か」は別の問題だと考えられるからだ。ここで問われるべきは「実際に原爆投下が戦争を終了させたと考えて良いのか」、あるいは「原爆投下がなされず、戦争が長引いた場合の犠牲はより悲惨なものになったのか」であって「原爆投下が悲劇か否か」はそもそも論点になっていないはずなのだ。

 容認・肯定といっても、あからさまに正当化する者などそうそうおらず、大抵は「戦争を止めるためにやむを得ず」という註釈付きとなる。仮に本音ではなかったとしても、基本的にそうせざるを得ないのは、「悲劇ではない」と主張するのが、いかに戦勝国側でも憚られるからだろう。「核の冷蔵庫」の件を思えば大きな不安が生じるのも無理はないが、それでも容認・肯定論者の大半が広島・長崎の惨状を(批判に値するほど)理解できていないと考えるのも難しい気がするのだ。

 1983年の映画『ブルーサンダー』(監督:ジョン・バダム)には「テロリスト10人に民間人1人の犠牲は許容範囲」という台詞(物語上、敵にあたる側のものではある)があり、警察官の威嚇射撃一発にすら始末書が必要となる日本においては、ブラックな笑いとして受け止めるべきかどうかすら戸惑ってしまうものの、多少極端な例題にはなっても、このような選択を迫られる状況が存在し得ることは否定できない。いずれにせよ、惨状を充分に伝えることが出来さえすれば戦争を止めることができるというのは、それはそれで甘い考えだとも思う。その「甘さ」は、果たして悲劇を充分に理解できているのだろうか、とさえ考えてしまう。