「流行に流されないというアピールは、文化ナルシストたちの間で昔から流行中」

 現代社会がそのような形になっているのが事実だとして、そして、それら慣習や現在美徳とされているようなものから、はみ出しても許されるのは実績を上げてからだというのも、分からないわけではない。しかし、そもそもある人にとってその慣習や美徳が実績を上げることが困難になるようなものなら、そこはある程度の自由を最初から認めてあげても良いんじゃないかというような話にまで、「順番待ちの美徳」だのなんだのと「社会人らしい」意見を述べるのは、大人になったわけでも、考えた結果の発言でもないと思ってしまう。諦めた、というのとも違う気がする。本当に諦めた人は、他人には何も言わないものだ。「そうあってくれた方が、自分はこれ以上考えなくて良いし、行動もしなくていい」と思っている人達による「オトナのフリした」発言に聞こえる。勿論、案件にもよるけれど、大議論的にそれだけ言って満足する人をたて続けに目にしてしまったものでね。


 さて、「見た目が大事」と似た話で、ツイッター等のSNS上だと、よくアイコンなどで判断する(アニメアイコン日の丸アイコンは面倒臭い奴が多いといった通説があるようですね)と聞くが、私はだいたい一人称と語尾のクセで直接的な繋がりを持つのは避けるべきかな、といった判断をしている。たまに私は、ふざけて重々しく見せてみたりする時に、自分のことを「美月氏は」なんて書いたりするが、普段から自身の名前そのものを(しかも、ネット上のペンネーム的な結構痛々しい名前を)一人称にしている人がいて、これが高確率で私には精神衛生上よろしくない相手なので、そういう人が寄ってくると警戒してしまう。アイドルや架空のキャラクターの「ボク」は嫌いじゃないが、それ以外の「ボク」(「僕」は大丈夫)も警戒対象。語尾は、以前も書いたが文章における「ッス」が苦手。私個人が警戒しているだけなので、世界全体の認識を変えたいとまでは思っていないけれど。

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 呟き散らかしたこと。



 YMOおじさんやスミスおじさん等のめんどくさい音楽おじさんの話が挙がっていたので、逆にめんどくささの薄いジャンルは何だろうと考え、めんどくさくなりがちな私が好きな音楽の中であまり熱心に語った記憶がないものがそれなのではと思い、頭の中で振り分けてみたらゴンチチだけが残った。

 竹中直人の『無能の人』の音楽はゴンチチでなければいけなかったと思うけれど、是枝裕和の『誰も知らない』は、ほとんどの音楽が邪魔になってしまう中、残ったのがゴンチチタテタカコの「宝石」だけだったのではと勝手に思っている。故に私は映画版『聲の形』の劇伴がゴンチチなら全く文句はない。

WORKS?The Best

WORKS?The Best



 J‐POPの衰退って、歌謡曲のドメスティック性というより、ドメスティックな意味での「歌の上手さ」を変に崇めたせいだと思ってる。私の嫌いなタイプの歌がその界隈だからってだけの理由ではあるけれど。つまり、バブル・ナルシスト系シンガーの「どうだ、うまいだろー」的歌唱法。



 「君たちの歌 訳が分かりすぎ 訳が分かりすぎるんだ いくら上手に歌っても 訳が分かりすぎて退屈なんだ 訳が分かりすぎ “わっ” “はっ” “ハッ” ってちっとも思わせてくれないんだ」