自己紹介やら目次やら

 投稿日付を未来に設定して常にブログのトップに表示されるようにする、というのは説明するまでもないことのような気もしていたのだけれど、わざわざコメントで突っ込みを入れている人を見かけたこともあるので、念のため、先にその旨を書き記しておきます。(随時編集)

 

美月雨竜(みづき うりゅう)

 1986年、北海道十勝地方生まれ。綺麗な字面に荒んだ心(当然偽名)。永遠の求職者。心に大風邪をひいて静養の日々。

 高校卒業後は札幌、そして神奈川で色々と勉強に励むも、湿度や人の群れに耐えられず、また十勝に帰ってきた(逃げてきたとも言う)。

 ザ・ビートルズ『マジカル・ミステリー・ツアー』、竹村延和『ソングブック』、DOOPEES『DOOPEE TIME』、デレク・ジャーマン『ザ・ラスト・オブ・イングランド』、『水曜どうでしょう』、さまぁ~ず、これらを定期的に摂取しないと生命が維持できない。

 ブログは基本的に毎週日曜と水曜に更新しています。

 略歴:総合学園ヒューマンアカデミー札幌校 ゲームカレッジ ゲームプランナー専攻

 日本映画学校(現・日本映画大学) 21期脚本ゼミ

 Twitter:@miumizuki

 

 

 

リスト系記事の目次

 

芸術系の道に進みたい人のための必見・必読・必聴作品リスト

 様々な人・媒体で紹介された各ジャンルの必見・必読・必聴作品のリスト(私が個人的に選んだ作品も含む)。私自身がこれから観たり聴いたり読んだりするためのメモ代わりである。ようするに、備忘録。

https://uryuu1969.hatenablog.com/entry/20130814/1376392193

 

「作家=俳優」映画リスト(海外編)

 異業種監督の中でも、俳優またはコメディアン、ミュージシャンなど演じることを生業とする人たちの監督した映画を中心とした映像作品リスト。本業は映画作家だが、特に役者としての活躍も多い作家も加えてある(誕生順)。

https://uryuu1969.hatenablog.com/entry/20131027/1382876094

「作家=俳優」映画リスト(国内編)

https://uryuu1969.hatenablog.com/entry/20131023/1382485847

 

映画についての映画リスト

 映画についての映画のリスト。
 映画がテーマのものや、劇中で映画に関することが描かれていたりするもの、あるいは主要人物が映画に関連していたりするもの。

https://uryuu1969.hatenablog.com/entry/20131009/1381271421

 

アーティスト映画リスト

 実在のアーティストを描いた映画(ドキュメンタリー含む)のリスト。

https://uryuu1969.hatenablog.com/entry/20130929/1388903697

 

暇な知人たちと共に選んだ名曲ベスト500(海外編)

 暇で奇特な知人たちと共に集計した名曲ベスト。好み、後世への影響、偉大さ、完成度、ヘンテコ度、普及率など様々な要素を踏まえて、あくまで私の狭い交友関係の中でも特に偏った十数名によって選ばれた500曲です。

https://uryuu1969.hatenablog.com/entry/20130310/1362871182

暇な知人たちと共に選んだ名曲ベスト500(国内編)

https://uryuu1969.hatenablog.com/entry/20130313/1362872307

 

暇な美月雨竜氏が個人的に選んだ音楽アルバム名盤ベスト500(海外編)

 最初に掲載したのは2013年の7月ですが、後に発表された作品や知った作品、あるいは気分の変化によって加えたり上下させたりしたくなったものは随時、加筆・修正しています。

https://uryuu1969.hatenablog.com/entry/20130721/1374406859

暇な美月雨竜氏が個人的に選んだ音楽アルバム名盤ベスト500(国内編)

https://uryuu1969.hatenablog.com/entry/20130717/1374018287

 

好きな映画

https://uryuu1969.hatenablog.com/entry/20120427/1335514963

https://uryuu1969.hatenablog.com/entry/20120427/1335514916

https://uryuu1969.hatenablog.com/entry/20120427/1335514850

 

挨拶代わりの小話

https://uryuu1969.hatenablog.com/entry/20000101/1490921224

 

 

マジカル・ミステリー・ツアー [Blu-ray]

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ソングブック

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DOOPEE TIME

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ラスト・オブ・イングランド [DVD]

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さまぁ~ずライブ11 通常版 [DVD]
 

「終わりがない」という怖さ

 素数の謎を解明しようとする数学者の原動力は、いわゆる「怖いもの見たさ」である場合もあるのではないかと時折思う。数学に限らず、世界の理そのものを宗教ではない形で探っていくというのは、なにか途轍もない、人間が踏み込んではいけない領域に呑みこまれていくような、恐ろしくも抗い難い、蠱惑的なものなのではないか。もちろん、どうにも数字を認識するのが苦手で、算数でも数学でもあまり良い成績を収められなかった私だからこその幼稚な想像かもしれない。

 しかし、日本の義務教育程度の基礎教養だけで世界の理、つまり時間の始まりや終わり、宇宙の始まりや終わり、全てが始まる前の何かしら、そういった問題をある程度真剣に考え続けて発狂も卒倒もしない自信があるとすれば、それは単に真剣の度合が著しく低いだけであろうし、仮に何かの拍子に真理に近いなんらかへと小指の先程度が触れただけで、一般的な強度の精神では耐えられるとも思えない。そもそも、自分なりの心構えでもってホーキング博士などの書籍に何度も挑んではいるのだが、現在地よりは深い所へ潜っている感覚はあるものの、実感を伴った理解が出来る気配は訪れない。そして、もし気配が訪れたとしても、それはそれで怖くてたまらない。いや、理解し得そうにもないものの上で生きているということを再認識させられるだけで、とんでもない恐怖なのだ。

 どうせ理解できないのであれば、目を逸らし続けるか、あるいは最初から興味すら持たずにいるのが楽ではあるのだろうが、分かりもしないくせに、いやあるいは「分からないがゆえ」に、ふとした瞬間、その恐ろしい問いが一斉に襲いかかってきて、五感が受信過多に陥るような感覚になる。この時の焦りに似た気分は、どうにも形容し難いのだが、不意打ちで精神を削られるくらいなら、自ら気持ちを整えたうえで挑んでみようと考える者がいるのは納得できる。納得はできるが、少なくとも今の自分には実践できないのである。

 

馬に跨り鹿を討ち、馬から転げ角を刺す

 馬鹿を馬鹿にしても馬鹿にされたことくらいは余程の馬鹿でない限り理解でき、しかし馬鹿なので反省や訂正や謝罪などはできず、ひたすら態度を硬化させ馬鹿みたいに反発してくることが多いのは多少の馬鹿でも想像できるはずなのだが、馬鹿を馬鹿だと馬鹿にする者たちは馬鹿を改めさせようとする馬鹿ではない者たちのはずなのに、どういうわけか効果的な解決方法を模索している様子もなく、ただひたすら馬鹿を馬鹿だと馬鹿にして馬鹿の多い馬鹿な世の中を嘆くポーズばかりを馬鹿みたいに見せつけるばかりで、ひょっとして馬鹿なのではないかと感じることもあるのだが、馬鹿ではないはずの者たちまでもが馬鹿であっては、私自身馬鹿であろうと馬鹿でなかろうと馬鹿みたいに嘆くほかなくなるし、仮に本当に馬鹿でないはずの者たちまでもが馬鹿だとしても、それを指摘してみせたところで馬鹿だから馬鹿みたいに態度を硬化させ馬鹿みたいな言葉でこちらを馬鹿にしてくるだけであろうことは馬鹿であろうと馬鹿でなかろうと容易に想像することができ、馬鹿に馬鹿にされることほど腹立たしいことはなく、そうなってしまえば怒りに囚われたこちらも馬鹿に引きずり込まれ、馬鹿ではなかったとしても馬鹿に足を踏み入れ、馬鹿だったとすれば馬鹿を悪化させてしまうことになり、結局は馬鹿と呼ばれようと語り得ぬことには沈黙すべしを徹底するほかなくなるわけだが、もちろんそれで馬鹿が馬鹿でなくなることも馬鹿の馬鹿な言動をやり過ごすこともできるわけではないのだが、馬鹿みたいに何度も書いているように、下手に馬鹿にした態度で馬鹿を馬鹿だと嘆くポーズだけ見せても馬鹿にされていることくらい馬鹿でも理解し、馬鹿な反発で周りを馬鹿にしてくるはずなので、それは世界全体の馬鹿さを悪化させることにつながり、ならばどうすれば良いのかと考えても考えているポーズだけに映ってしまえば馬鹿が馬鹿にされたと馬鹿みたいに反発してくるとも考えられ、とりあえずなるべく馬鹿にした態度をとってしまわぬよう、この場で一生分の「馬鹿」という言葉を出しきるつもりで馬鹿みたいに何度も馬鹿と書いてみるという馬鹿みたいな荒技を実行してみたのだが、どうにも一生分はおろか一日分の「馬鹿」を出し切ったようにすら思えず、馬鹿を馬鹿にすれば馬鹿な反発をしてくることだけは想像できる程度の頭では一日分の「馬鹿」すら使い切れず、ああ馬鹿なことをしたものだと嘆いてみせようかと思ったが馬鹿にされそうなので思うに留めた。

 

ラーメンたいして食べたくない

 ラーメンを食べる機会があまりない。今の生活において、辛うじて口にする機会があるのは、インスタントラーメンかカップ麺、それも定番中の定番である商品くらいのもので、家でも外でも調理と呼べる工程を経たものを食事として摂取したのは、おそらく15年近く前の事になる。

 最もラーメンを口にする機会が多かったのは小学生~中学生の頃で、それはつまり義務教育期間ゆえに学校給食として月に数回支給されていたからに過ぎない。ラーメン王国と呼ばれたりもする北海道ではあるが、給食に登場するのは基本的に醤油・味噌・塩あたりの通常種が大半で、それが小・中学生の昼食として理想的な栄養バランスだったのかどうかは分からないが、さすがにスープ表面が油で覆い尽くされているような、見るからに不健康なラーメンではなかったと記憶している。ラーメン評論家となる事など億万長者以上に縁遠い星の下に生まれた私としては、給食での登場頻度だけでラーメンに対する欲求は充分に満たされていたのだった。

 義務教育を終えると、嫌でも昼食にラーメンがねじ込まれることはなくなり、逆に言えばどうしてもラーメンが食べたいとなると、自分(または同居者など)が作る、もしくは飲食店に注文するという方法をとらないといけないのだが、どうも丁度そのあたりから、世の中ではやたら脂ぎったラーメンが幅を利かせるようになった印象がある。何度か書いた「チーズとマヨネーズの野郎が厚かましい問題」同様、ラーメン界でも「ギトギトのゴテゴテこそラーメンだ」という暑苦しい価値観が拡大し、かと思えば反動なのかフランス料理の前菜のような無駄に小洒落た姿で現れる妙な輩も目につきはじめ、ただでさえ大して強くなかったラーメン欲がトドメとばかり討ち取られていった。

 我が地元では、たて続けに書店が閉店しているというのに、ラーメン屋は増加傾向にある。しかも、風情としてもできれば営業し続けてほしいような、昔ながらのラーメン屋は潰れていくのである。嫌でも目につくほど建ち並ぶのは、医者が良い顔をしなさそうなギトギトが売りのチェーン型ラーメン店ばかりである。偏見だとは思いつつも、ラーメン屋ばかり増えるような街は文化民度が低いのではないかとさえ勘繰っている。

風に慣れたい。いや、やっぱり殴りたい。

 風が強いと苛々してしまう。強い日差しも暑さも寒さも雨も雪も雷も体調まで悪化させる低気圧も、なんだか大抵の気候は苦手な気もするのだが、日差しは遮ることが可能で、暑さ寒さも文明の利器をフル活用できれば、どうにか今のところは凌げている。雨は屋内にいれば当然凌げるし、音も大きさの差はあれど基本的には一定のリズムで降ってくれるので不快にはならない。雪は音がしないし、除雪は辛いが自分の判断で休憩も中止もできる。低気圧による体調不良は、おとなしく眠ることさえできればどうにかなる。しかし、風は強ければ強いほど鳴り響く音に規則性がなくなり、そのうえ雷と違って音が止む時間がほとんどない。換気扇などが嫌なタイミングで唸り声を上げたりすると、ぶち壊したくなったりもする。騒音に敏感なのは、通院を続けてもあまり改善されず、結果として強風への憎しみは以前よりも増大している気がする。なにせ、屋外はもちろん、屋内でも煩わしさから解放されない。

 強い風が撒き散らす騒音は、頭の悪そうな人間が不必要に響かせる自動車のエンジン音に似ている。音の質感というより、こちらの神経を逆撫でする嫌らしさがである。人生を捨てる気になれば、車や車の持ち主を鉄パイプかなにかで殴りつけることは可能だが、風には実体がないのでそれすら不可能だ。風の神なるものが存在するとして、神を罵倒してしまえば逆効果であろう。かといって、ここまで不快にさせられてしまうと敬う気にもなれない。こちらが聴覚か人生そのものを捨てなければならないのだろうか。そんな横暴な奴に屈するわけにはいかないのだが、対抗する手段も思いつかないのである。

 

Valentine's Day Kill

 「バレンタイン」「毒殺」といった物騒なワードで検索してみても、上がってくるのは創作物ばかりで、しかもプロの作品よりも一般の方が趣味で描いた物語が多い。検索結果の概要を眺めているだけで、過剰に甘く、余計な混入物まで大量に加えられたチョコレートを流し込まれるような気分になり、実際に一例でもそのような事件があったのかどうかさえ不明なまま早々に力尽きてしまった。もっとも、たとえ義理という形であっても、殺したいような相手にバレンタインに贈り物などしたくないだろうし、万一殺害に失敗し、そのうえ殺意すら伝わらなかったとしたら、最悪に不快な勘違いを起こされる危険性もある。どうやらモテない者たちが考えるほど(偏見だが)、バレンタインは毒殺に向いていないようである。

 考えてみると、バレンタインに関わらず、特定の人物を食品に混入させた毒物によって殺害するというのは、家族間や表面上の友人関係を築けていない場合は非常に困難に思える。殺意を持つほど険悪であればあるほど、口にするものを送る機会は減るであろうし、機会に恵まれたところで、殺されるとまでは思わずとも、相手だって多少の警戒はするだろう。

 相手が口に入れようとしているものに、隙をみてあらかじめ毒物を混入させておくならまだしも、わざわざ自ら「贈り物」と称して手渡すなど、何か特別な意味が込められていない限り、殺害方法としては愚行としか言いようがない。別の誰かが標的に渡したチョコレートにこっそり……という方法もあるだろうが、標的が誰からも貰っていなければ実行できない。そもそも、差出人の確認がとれようが、その場で標的がチョコを口にするとは限らないし、標的以外を犠牲にしてしまう可能性もある。いずれにせよ、わざわざバレンタインを利用する意味はない。

 それなのに、どうして多くの創作者たちがバレンタインを毒殺日和にしたがるのだろう。やはり、モテない者の歪んだ感情が生み出した哀しき風潮なのだろうか。

 

「だったらいいな」が生むべきものとは

 「テレビアニメ版『ツヨシしっかりしなさい』は集団幻覚ではないのか」という話は、どうも定期的に話題に上がり、その都度小さな盛り上がりをみせている気がするのだけれど、このところ私は「大谷翔平日本ハムファイターズに在籍していたことこそ集団幻覚ではないのか」と疑いを持っている。

 スポーツ嫌い、特に日本におけるスポーツというものの在り方に関しては憎悪を抱き続けている私だが、その私ですら偉大さを理解せずにいられないほどの存在となった大谷翔平が、よりにもよって角盈男がかつて某バラエティ番組内で「あいつらはヒマ」と言ってのけた日本ハムファイターズの選手だったなどと言われても、それは多くの日本人、特に北海道民の「だったらいいな」という願望によって生じた幻覚だと考えても無理はないのではなかろうか。おそらく、スポーツ嫌いの私だからこそ、疑念を持つことが可能だったのである。

 いや、もちろん無理のある話なのだが、自分の娘が大谷翔平を彼氏として連れて来ることを真面目に期待しているような方々(実際、いるらしい)ほど、突拍子もない発想ではないと思いたい。しかし、いくらスポーツ嫌いの私ですら偉大さを認めざるを得なくなった大谷選手が日本で活躍していたことを誇りに思いたい人が多くいたとしても、たとえ集団幻覚であろうと、もっと具現化されて然るべき「だったらいいな」が沢山あるはずだ。さすがに深刻な社会問題等の解決よりも「大谷は日本で活躍していた」が重要視されてしまうとは考えたくないので、やはり集団幻覚説など荒唐無稽な戯言だったという結論にしておきたい。まあ、優先されるべき「だったらいいな」の大半が現実味を失い過ぎてしまっているということかもしれないけれど。