あの日に帰りたくない

 BSフジで再放送中のテレビドラマ版『座頭市』。最初のうちは面白く観ていたのだが、ここ最近は「勉強のため」という形でしか観れなくなっている。ただ楽しむためだけなら、もう視聴はやめていただろう。殺陣は文句なしに毎回凄まじいのだが、正直殺陣のシーンだけ集めた編集版とかの方がいい。

 そもそも、勝新太郎は、すごい役者だとは思うが、好きな役者というわけではない。『座頭市』の常連役者で言えば、むしろ岸田森石橋蓮司の方が好きで、このお二方が出てくると今でも真剣に観る(大抵、切られる役だが)。

 しかし、特に「女もの」の話がダメである。不幸な女/少女が市に救われ、しばし行動を共にするうちに……といった展開になると、ちっとも面白さを感じられなくなる。

 また、林与一がよくそういう女を騙くらかして不幸にさせる役で登場するのだが、林与一の悪行をわかってなお、更生を信じたりする女たちを見ると、そんな性格だからより不幸になるのだろうと冷めた気分になる。

 ところで、『風来のシレン』シリーズの初作(SFC)には、「座頭ケチ」というキャラクターが登場する。見た目は、勝新太郎北野武というよりは、『みんな〜やってるか!』で座頭市を演じた時のダンカンに似ている。

 ついでに言えば、すぎやまこういちさんによるテーマ曲は、映画『ロミオとジュリエット』のテーマ(ヘンリー・マンシーニ)に似ている。更についでに言うと、『花のお江戸の釣りバカ日誌』のエンディング曲は、喜多郎の「シルクロードのテーマ」にそっくりである。

座頭市物語 DVD-BOX

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不思議のダンジョン2 風来のシレン

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 福島のことを「フクシマ」と書くべきではない、という話がある。実際、私も「フクシマ」とは書かないようにしている。これは、まあ感情的な理由になるけど、どうにも敢えて「フクシマ」と書くのは、福島全体を異界のように扱っている気がしてしまう(「フクシマと書く人たちがいったい何を考えているのか僕は知らないけれど、この書き方はそこに現に人々が生活しているという事実をどこかに捨てて、ひどく抽象化した何かを表しているように感じる。福島には人々が暮らしているが、フクシマはそうではないように思うから、フクシマとは書かない」菊池誠『Kikulog』より)。

 「ヒロシマ」「ナガサキ」から来ているのは明らかで、当の「ヒロシマ」「ナガサキ」は、諸説あるようだが「英語の原文があり、そこから英語のスローガンが作られ、それがかたかなで表されるようになった」(菊池誠さんのブログから引用)。
詳しくは↓
http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1326532410

 英語圏でも扱われている、ということを示すためのカタカナ表記であり、ゆえに今現在、日本から海外まで意識して福島のことを語るなら、むしろ「FUKUSHIMA」とすべきだと思う(内田裕也はたしか「FUKUSHIMA」と書いていた)。

 考えすぎだと言われることもあるのだが、事実「フクシマ」と書かれることが不快だという福島の方もいる。ゆえに、被災者の心に寄り添う/不安な気持ちに寄り添うなどとのたまいながら、無神経に「フクシマ」と表記している人を見ると実に腹立たしい。

 また、脱原発に関してだが、これは「原子力発電に頼らないようにする」ということであって、可能な範囲の節電は悪くないにしても、決して「電気に頼らないようにする」ということではない。電力の安定供給は簡単に無視しちゃいけない。

 しかし、脱原発派の中には、近代文明を全否定するような極論を挙げる者がいる。こういった意見に、私は断固反対の意を表明したい。これは、原発の是非以前の問題だ。「電気がないと死ぬ人がいる」という発言に「キャンプしたことがないのか?」と問うた馬鹿者がいたが、そういう馬鹿は電気の安定供給を前提とした医療器具によってどれだけの人間が生きているのかということを全く考えていないのだろう。もしくは、そういう人間は死んでもいいと考えているのだろうか。

 大長編ドラえもん第12作目、及び映画第13作目となった『ドラえもん のび太と雲の王国』は、『のび太とアニマル惑星』に並んで環境問題を大きく取り上げた作品だが、この作品では「環境を守ろうとする側の暴力性」も描かれている。

 『雲の王国』には雲の上で暮らす天上人が登場する。天上人は地上人と同じ人間だが、優れた科学力(藤子不二雄的SFの範疇だが)を持っており、絶滅動物の保護なども行っている。そして、天上人は地上人による環境破壊が悪化していくことに業を煮やし「動植物と地上人をあらかじめ天上界に避難させ、大洪水で地上文明を洗い流して破壊する」というノア計画を企てる。避難させるとは言っても、それは一時的であり、地上人は「洗い流された世界」に戻されるのだ。地上人代表として会議に出席させられたジャイアンスネ夫がそのことについて詰め寄ると、天上人の過激派(作品の中で過激派と呼ばれているわけではないけど)は「君たちの祖先もそうやって(何もないところで暮らした)きたではないか」と意見を退けようとする。

 天上人の過激派には、「洗い流された地上」に降りたとき、かつて文明の力によって救われていた命がどれだけ消えてしまうのかということへの想像力が欠けている。いや、それさえも自業自得だと考えているのかもしれない。しかし、消えてしまう命の多くは、その「洗い流された地上」に生まれてくる子供たちだろう。この子たちの死さえも自業自得なのだろうか。

 文明の力によって救えるはずだった肉親を「自然の摂理に背く」という理由で救わないことを選択できる人間でない限り、私は「近代文明を洗い流す」というような意見を語る資格はないと思う。少し過激なことを言えば、このような意見を言う人の中で50歳以上の人は、近代文明がなければその年齢まで生きていた可能性は低いだろうから、さっさと死んでしまえ、ということになる。

 感情/不安の話をすると、放射能に関していくら今は問題のない数値だと説明されても不安を拭いきれない人がいるように、私はいくら電気は足りているのだと言われても、足りなくなるのではという不安を拭いきれない。そして「電気は足りる」の根拠が「そもそも電気はそんなに必要ない」というものだったら、それに対しては「不安」などという曖昧なものではなく、はっきりとした「恐怖」を感じる。足りなくなることよりも、足りなくなったときのことを想像できない人間の存在が怖い。