PMC野郎『陛下に届け』、さよポニ『魔法のメロディ』ほか

 ポップンマッシュルームチキン野郎『陛下に届け(団体・名称等は実在のものと一切関係ございません公演)』。

 御国を象徴するやんごとなきあの御方たちをモチーフにした、かなりスキャンダラスな内容の「ナンセンス皇室コメディ」。

 本編前の前説で『裸の銃を持つ男』の音楽が使用されていたが、「ナンセンスコメディ」な部分は確かに『裸の〜』あるいは『バカ殿』さえ彷彿とさせる。ただ、確かにコメディ部分は(特にやんごとなき一族が出てからは)面白いのだが、終盤まではコメディ部分がこれほど必要なのかと疑問に感じ続けた(実際、かなりくどい部分もあった)。しかし、観終わってみると、このスキャンダラスな物語は『バカ殿』的なナンセンスコメディであることをある程度強調しておかなければ観客がついてこれない危険性があったのではないかと思った。なにしろ、やんごとなき一族の妃の恋愛感情さえ公には認められないのだから(そういえば、その代行として俵万智の歌があり、俵万智はやんごとなき一族制度そのものだと、たしか百川敬仁が言っていた)。だから『陛下に届け』におけるコメディ部分はシリアス部分を盛り上げるためのテコ以上の意味を持っていると思う。なにせ、あの御方のラブストーリーであるだけでなく、物語は更にスキャンダラスな展開を見せるのだから。多少しつこいくらいのナンセンスコメディ性を強調する必要が『陛下に届け』にはあったのだ。ところで、俵万智はあの制度そのもであると同時に故ダイアナ妃と同じ位置にあるという指摘もある。そして『陛下に届け』の妻も、福祉活動に熱心だ。つまりは母性の象徴ということ。しかし、俵万智と決定的に違うのは、代行者としての俵万智の恋歌がドロドロした恋愛とは距離を置いていたのに対し『陛下に届け』はそのドロドロにまで足を踏み込むことだ。これも別の形でスキャンダラスだ。また、母性の象徴たる妻に踊らされる陛下、という視点で考えると、また違った危うさが見えてくる。やはり、くどいくらいのナンセンスコメディでないと、観ていられない物語だと思う。すべて計算されているのだとしたら、作者こそやんごとなき人物じゃないか?

 ただ、どうしても好きになれないのは、これはPMCだけじゃなく小劇場全般にいえるのだけど、本編前の劇団員による前説の空気感。これは、演じ手だけでなく小劇場ファンの問題でもあるのだけど、あの身内感が熱心な小劇場ファンではない観客を置いてけぼりにする。地域性と閉塞性が強くなりがちな為、初見者に対する配慮が低くなるのかもしれない。もっとも、あれがなければ小劇場じゃないというファンもいるのだろうから、少々厄介な問題だとも思う。

 PMC野郎には、陰謀論やデマ情報を垂れ流して大騒ぎてる文化人たちを風刺するコメディを演ってほしいな。本当は私が『ゆけ!ゆけ!川口浩!! 去ね!去ね!ダリオ・フォ!!』ってタイトルでそういう内容の小説を書こうとしてたんだけど、どうにも私の頭では面白くならないのだよなあ。で『陛下に届け』を観たら、「ああ、この感じだなあ」と思った。思っただけで、私にはあの感じは出せそうにないけど。

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 「私たち、普通の魔法少女に戻ります」
(さよならポニーテール『魔法のメロディ』『きみのことば』に関して)



さよならポニーテール『魔法のメロディ』イメージビデオ


さよならポニーテール「ナタリー」



 漫画『きみのことば』の出版社が太田出版であること、クイックジャパンで紹介されたこと、絵がちょっと西島大介を彷彿とさせること以外は、音楽も漫画もそれほど強烈にサブカル臭さは感じない。だから、空気公団に似ているという指摘は分かるけど、相対性理論には、あまり似てないと思う。むしろ私は奥田民生PUFFYを想起した。空気公団が作曲だけ奥田民生に依頼したような感じとでも言おうか。

 例えば、やくしまるえつこが「無気力スイッチ」を歌うのはちょっと想像しにくいし、互いにとってもあまり良くないと思うのだけど、奥田民生が「無気力スイッチ」を歌う姿は結構しっくりくる。そのあたりもサブカル臭さの薄さに関係してるのかも。

 曲調や歌の世界観だけなら、相対性理論的なちょっとマニアな魅力というよりも、もっと大衆性の高いたとえばいきものがかりなんかに近い気がする。でも、いきものがかりよりサブカルマニアにも訴える力が感じられる。

 たぶん、相対性理論いきものがかりは「いつかぼくらの自由時間が終わるまで」(ナタリー)みたいな歌詞は書かないと思うし、この詞に曲をつけることになっても「ナタリー」のようなメロディにはならないはず。大まかに言えば、相対性理論より「普通に」とっつきやすくて、いきものがかりより「マニアックに」楽しめる。良いバランスだと思う。

 ちなみに漫画『きみのことば』は、2011年の日本的『イエロー・サブマリン』といった感じさえする。音楽だけでなく漫画も武器にしたさよポニにかかればブルー・ミーニーズもきゅん死に必至か?

 また、さよポニの話。何故私がユーミンではなく奥田民生を想起するかについて。近田春夫さんが奥田民生ビートルズの関係について、あからさまにビートルズのパロディでありながらビートルズが作ったことのない曲になっているのが奥田民生の凄いところ、というようなことを言っていて、それは当の近田さんの「恋のT.P.O」とそれまでの歌謡曲との関係ともイコールだと思う。そして、さよポニとユーミンの関係も私はそうだと思う。そういう意味でさよポニをユーミンだとはあまり思わないし、むしろ奥田民生であり近田春夫だと思う、ということ。


 不思議なことにさよならポニーテールの無気力スイッチ(特になっちゃんバージョン)を聴くと、やる気スイッチがオンになる。


さよならポニーテール「無気力スイッチ」

魔法のメロディ(初回生産限定盤)(2CD)

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きみのことば

きみのことば

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 『ZERO:911の虚構』はプロパガンダ映画としての出来が良いことが問題を大きくしていて、そういう意味ではリーフェンシュタールに通じるのかな。まあ、リーフェンシュタールないしヒトラーほどのスペクタクルな美的センスはないけど。

 『チェルノブイリ・ハート』はまだ観ていないけど、ヤコペッティ度が高いと聞く。ただ、私個人はヤコペッティアベルフェラーラ的な存在と定義してるので、『チェルノブイリ・ハート』を観てもヤコペッティ的だとは思わないだろう。もっとも、私がヤコペッティアベルフェラーラ的と定義するのは、ヤコペッティ作品を公開当時ではなく、90年代以降に観たからであって、この2011年に、しかも原発がらみでヤコペッティ度の高い映画が公開されることが良いことだとはまったく思わない。

 ちなみに、かなり乱暴な括りだし、映画学校内で言ったら後遺症が残るほど殴られそうだから言わなかったけど、今村昌平も私はヤコペッティと近い印象を持っている。大まかに言えば、今村昌平ヤコペッティは『ZERO:911の虚構』や『チェルノブイリ・ハート』のような映画を撮る側の人間の浅ましさも描けただろうけど、『ZERO:911の虚構』や『チェルノブイリ・ハート』の製作者にそれは出来ないだろうということ。

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 『それでも町は廻っている』9巻のべちこ焼きのエピソード。これの何が素晴らしいかって、タイムトラベルが可能で、いかにも未来的なファッションな人たちがたくさんいる未来像の中に、小さな和菓子屋が共存しているのが嫌味なく描かれてるところだ。その和菓子屋自体にも、べちこ焼きなる未来の和菓子があって、ようは進化することも、古き良きものを残すことも作者が肯定しているということで、更に古き良きものがヘンな方向に進化してるというオマケつき。どちらかを否定的に描いて片方を持ち上げるようなことは、石黒正数はきっとこれからもしないだろうと、この話を読んで思う。

それでも町は廻っている 9 (ヤングキングコミックス)

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 金田一蓮十郎『ニコイチ』9巻。やっぱり凄く面白い。ハラハラするし先も不安になるのに、苛々したり暗い気分にはならない。たぶん登場人物がみな適度に強くて適度にダメな奴だからだろう。みんな適度に強いから、たとえバッドエンドを迎えても、そこで人生終了みたいなことにはならないだろうし、みんな適度にダメな奴だから、多少の不幸が起きても、こちらは安心して見ていられる。ひょっとしたら『水曜どうでしょう』ももっているという「悪の浄化作用」が『ニコイチ』にもあるのかもしれない。