未来が今だと気づかずに

「Standing tough under stars and stripes
 We can tell
 This dream's in sight
 You've got to admit it
 At this point in time that it's clear
 The future looks bright

星条旗の下にしっかりと立ち 語り合おう 未来はすぐそこまで来ている 君だってそれを認めなくちゃいけない 現時点でそれは明白だ 未来は明るいと)」
ドナルド・フェイゲン「I.G.Y.」)



 ドナルド・フェイゲンの名曲「I.G.Y.」で歌われているのは、1950年代のアメリカ。「I.G.Y.」とは、International Geophysical Year(国際地球観測年)の略で、これは1957年7月から1958年12月にかけての科学プロジェクトのことで、ソ連スプートニク1号アメリカのエクスプローラー1号もその一環だ。

 「I.G.Y.」が発表されたのは、レーガン政権下の1982年。歌の中で夢見られていた「自由で素晴らしい世界」とは言い難い。この曲は、そんな時代に、未来への希望に溢れたかつてのアメリカを皮肉をこめて歌った曲なのだが(「I.G.Y.」が収録された名盤『ナイトフライ』全体が、こうした皮肉と寓意に満ちている)、しかし、本当に皮肉だけだったのか。あの、寂しさと懐かしさを呼び起こすようなメロディとアレンジは、単純な「昔は良かった」とはまた異なる、「未来に希望をもてた」ということ、そのものに対する郷愁だったのではないかとも思う。

 ところで、1984年の映画『レポマン』(監督:アレックス・コックス)について、『CineLesson15 アメリカ映画主義 もうひとつのU.S.A』の中で北小路隆志は、「ロバート・アルドリッチのいかにも1950年代的な陰影とサスペンスに満ちた傑作『キッスで殺せ』(1955)の大胆かつパンキッシュな翻訳である。したがって、『レポマン』における80年代代アメリカは、50年代アメリカの醜悪かつ喜劇的な反復=パロディとして描かれる」と分析している。また、同じように80年代のアメリカを描いた映画として『ダウン・バイ・ロー』(1986年/ジム・ジャームッシュ)も挙げられ、「監獄の外に出たとき、そこに見出されるのは、自由ではない。(中略)あらゆる光景が等価なものとしてある世界。東に逃げるも西に逃げるも同じでしかない同一性の地獄とでも呼ぶべき世界」と書いている。たしかに、80年代アメリカの負の面に目を向けると、そうした息詰まるような印象を受ける。

 だが、同じく『アメリカ映画主義』の中で、鬼塚大輔が『パーフェクト・ワールド』(1993年/クリント・イーストウッド)に関する論考の中で「アメリカが完璧なものであったことなどは一度もないし、これから先も決してない」と記していたが、アメリカに限らず、おそらく世界がそういうものだ。そして、「I.G.Y.」の中で歌われているような未来は、叶わなかった夢ではあったが、しかし、80年代アメリカが50年代アメリカと比較して、格段に良くなっている面も沢山あるわけで、ドナルド・フェイゲンは、そのあたりのことに鈍感ではなかったと個人的には思っていて、この曲が高田渡の「自衛隊へ入ろう」的な皮肉だけでもなく、ましてや、江戸しぐさなどに惹かれるような「昔はよかった」系の思想などでもない、豊かな魅力に溢れている(なんて陳腐な言い草だろう、情けない)のは、そんな理由があるのではないかと。

 ところで、ロナルド・レーガンという人物は、大統領として、あまり文化面からは肯定的に描かれることがない印象があるのだけれど、しかしながら、なんだかんだで8年間の任期を務めあげたのは、ウィキペディアにも書かれたように、茶目っ気の強い憎めない人柄によるものだったようで、このあたり「醜悪な」はともかく、「喜劇的反復」という北小路隆志の分析が、やっぱり的確なものなのではないかと感じる(ちなみに、レーガンに関するエピソードで個人的に一番好きなのは、ホワイトハウスの敷地に住みついたリスたちとの話。キャンプデービットでたくさんのドングリを見つけたレーガンが、ポケット一杯にドングリをつめて持ち帰り、リスたちに与えた。その後、再度キャンプデービットから帰ると、会議中に窓にドングリを待つリスたちがたくさん待ち構えていたらしい。インタビューでレーガンは「はっきり聞こえたよ“大統領、ドングリはどこ?お土産はないのかい?”ってね」と語っている)。実際、閉塞感漂う映画もあれば、底抜けにおバカな映画もあふれ出していたのが1980年代のアメリカなわけである。

 そんなレーガンは、「在職中に銃撃されながら死を免れた最初の大統領」である。レーガンの暗殺未遂事件は1981年3月30日のことで、犯人の名は、ジョン・ヒンクリー。映画『タクシードライバー』(1976年/マーティン・スコセッシ)のジョディ・フォスターに魅了され、ストーカーとなり、この映画の影響の下、この事件を犯している。大統領暗殺というデカい事件を起こせば、彼女の気を引けると考えたらしく、レーガンはとばっちりを食ったようなものである(ちなみに、このジョン・ヒンクリー、ビートルズのファンでもあり、前年のジョン・レノン射殺の後、セントラルパークでの追悼集会にも参加。そして、ジョンを撃ったマーク・チャップマンが使ったものと同型の銃を購入したとか)。

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 さて、長々とドナルド・フェイゲンや80年代アメリカ映画やレーガンのことを書いているが、ここ数日は、先日のAKB48の握手会での事件について考えていたのだ(なんとなく、どこかでつながっているような話でもあるから、先にあれこれ書いておいた)。

 原発などに関しては、残念な思想に囚われている人が、私の知り合いやツイッターのフォロワーにもいるのだが、しかし、今回の件に関して、セキュリティ面に対する批判はともかく、たとえこれまでAKB48を否定的に見ていた人でも、さすがにありがちな「AKB商法の影響」だとか「アイドルオタクの特殊性が」というようなことを公言する人はいないだろうと思っていたのだが、いた。

 ちなみに、以前にも、その人のいじめに関する発言で、私はどうにも気分が悪くなってブログを書いたのだが(http://d.hatena.ne.jp/uryuu1969/20100701/1335784589)、いまだに私は、この人がどういう人なのかよくわからない。性格とか考え方の話ではなく、素性の話である。ライターらしいのだが、どうにもつかめず、ひょっとして清水義範の『人間の風景』に出てくるような、地方文化人の類なのではないかとも思っている。

 曰く、「AKBの事件、起こるべくして起こった感じ。まあ、アクドイ商売してるから、そんなもんだろう」とのことなのだが、今回の凶行が、商法に対する批判の意味でのテロ行為だというなら(テロという手段を肯定することはないが)、まあ確かに「アクドイ商売をしているのだから」という指摘も多少は仕方ないのかもしれないが、今のところの犯人の動機からすると、AKBだから起こるべくして起こったということは言えない。それこそ、レーガンが銃撃されたのと、ほぼ同じようなものだろう。

 純粋なライヴ活動などしかやっていなかったら襲われなかったかと言えば、そんなことはない。サイモン&ガーファンクルが公演中に襲われかけたのは、結構有名な話である。そもそも、有名人が襲われた事件など、数えきれないほどあるわけで、今回の件で、セキュリティ的に握手会は危ないのではないかという意見はもっともだが、AKBのありようについての批判を繋げるというのは、どうしても理解できない。シークレットサービスに守られた大統領であっても、撃たれる時は撃たれるのだ。狂気に囚われた人間の行動を読むのは困難である。

 ひょっとして、因果応報などという怪しい宗教的なことを考えているのだろうか。今回の件で、本気でAKBのありようが招いたものだと考えているのなら、それくらいしか想像できない。しかし、仮に因果応報というものがあるにしても、だとしたら(本当にAKB商法が誰から批判されてもしょうがないほどアクドイものだったとしても)秋元康が真っ先に標的になっていないとおかしい。「AKBという巨悪のシステムを根絶するには、多少の犠牲はかまわない」などと思っているのなら、ダメな反原発派が被災者がより不幸であるのを望むような発言を繰り返すのと似たようなものになってくる。少なくとも、被災地支援という面においては、AKBの力は大きい(https://plus.google.com/102177105988330197362/posts/U934ZLUbSWC)。

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「要は、抜かれたくないのよ、若い人たちに。俺が最高の生活をして、人間を終えたいわけ。次の世代の人が良くなるように、なんて発想はさらさらないのよ。だってそれは自分で発見することだから。今の若者がそういうことを自分で発見して立派になって幸せになる。それは個人の問題だからね。私がとやかく言うことではない」
「長い歴史の中で、自分が生きた時代が「一番綺麗だったよね」って言われたいですからね」
所ジョージ所ジョージの私ならこうします 世直し改造計画』)

 こういうことをサラッと言ってしまえるから、私は所さんが大好きなのだが、所さんがサラッと言ってしまっていることの多くは、昔は良かった系の人たちとかが、無理矢理理屈をこねたり、あるいは単純に歴史事実として間違っていることを盾にしたりしながら、説教のような形で述べていることに対し「結局、そう思いたいだけなんでしょ?」とあっけらかんと突きつけるものでもある。

 こと、芸術/芸能に関しては、負の面しかないものというのは、そうそうない。自分の好きな文化を広めようとするのは大いに結構だが、理解できないものを排除しようとしないとそれができないのなら、その程度の文化なのか、魅力を伝える力が足りないのかだろう(たぶん、後者だ。ところで、AKBの商法への批判ばかりする人の多くが、なぜ多くの人がそれでも惹きつけられるのかの考察、あるいは楽曲そのものへの考察などをしていないというのは、ちょっと興味深い)。

 単純な話だが、今の私は、取り返しのつかないような失敗を避けることには注意しながら、明るい未来の話をしたいですね、という気分だ。単純だけど難しいわけだが、難しいことを考える方が楽しい。


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