しあわせなら身をかくそう

 社会全体の息苦しさに改善の傾向は感じられないものの、それを誤魔化すかの如く、私の居住区域のような僻地においても、クリスマスのイルミネーションとやらが公共施設だけでなく、一般住宅でさえ目につくようになった。当たり前の光景とまではいかずとも、室外までをも飾り立てることへの敷居は確実に下がっているようである。飾るのも眺めるのも私の趣味ではないが、別に糾弾しようという気持ちもない。

 ただ、自分が今以上に苦しい境遇にあった場合、飾り付けられた他人の家屋に対し、幸せの見せびらかしのように感じて、湧き上がってくる攻撃的で破壊的な衝動を抑え込める自信があるとは言えない。いや、イルミネーションに限らず、現状においても、そういった衝動自体は頻繁に生まれているのだから、自分の中における許容範囲のようなものが、いつ限界を迎えてしまうのかという不安は常に持っている。

 素性を知らぬ他人は幸福にふさわしい善人である可能性も罰せられるべき悪人である可能性もあるが、大抵は清濁あわさった“普通の人”だろう。しかし、目に入った幸福そうな人間が、自分より“濁”が濃いかもしれぬという可能性に思い至る時というのは、おそらく精神的に追い込まれ気味な状態であろうし、だとすれば一線を越える可能性も高くなるはずである。心当たりが簡単に見つかる私には、たとえ生活に充分すぎる余裕が生まれても、自宅を派手に彩ってみせる自信はない。

 もっとも、必要以上に質素な佇まいであるのもまた、追いつめられ気味の人間の精神を逆撫でする危険性が高いことは理解しているので、結局なるべく目立たずに生きるというのが、命を奪われにくくする最も効果的な方法なのかもしれないなどと、誰にも会わずに自室で考えている。