私は責任者には似合わない

 容姿の話である。

 当然、何かの言いだしっぺになれば、最高責任者とまではいかずとも、なんらかの責任は生じてくる。いや、生きているだけで、人間は色んな責任でがんじがらめである。しかしながら、「責任者」という形の見える存在となると、どうにも私の姿形はそれにふさわしくないように思える。「責任者」は、もっといざ吊し上げる時に、吊し上げ甲斐のある容姿をしているべきではないかと勝手に考えている。

 たとえば、『水曜どうでしょう』の名物ディレクター藤村忠寿氏は、自ら「はりつけが似合う人」だと対話集『腹を割って話した』の中で語っている。

 「たとえばファンが大挙して「おい『どうでしょう』!いいかげんに新作やれ!」とかって暴動になったときに、いの一番にはりつけになって吊るし上げられる悪党は、俺なんだろうね(笑)」
 「それがいちばん似合うっていうのは客観的にわかるんだよ(笑)。「やめろー!!」とかって言ってるけど、絶対に死なないんだこの人は。なにか姑息な手を使って逃げるだろうから(笑)。そこに安心感もあるんだ」(『腹を割って話した』119Pより)

 「ヒゲでデブ」な藤村Dは、裸にむいて吊るし上げになるのが確かに似合うし、つっついたり蹴っ飛ばしたりもしがいがあると言えばある。そして、そこまでやっても、これまた確かに「絶対死なないし、どうせ逃げる」という安心感もある。安心感があるから、怒っている側も、気の済むまで罵倒できる。私は、ヒゲも蓄えていないし、体形も貧弱である。つっついたり蹴っ飛ばしたりすれば、あっという間に死んでしまって、殺したことへの罪悪感を抱かせたり、あまりにも簡単に死んでしまうものだから、怒りもまだまだ解消しきれず、死に逃げされたような悔しさを相手に与えてしまうかもしれない。

 ヒゲでもデブでもなく、体形そのものは貧弱でも、はりつけが似合う人はいる。貧弱なくせに、殺しても死ななそうな奴というのはいるのだ。妖怪じみているとでも言おうか。私は、そんな存在を目指していたりもするのだが、残念ながら、まだその域に達していない。殺したら、殺したまんま、生き返ってこなさそうな弱っちい妖怪である。

 ゆえに、吊し上げの似合わない(と、世間に思われる)人間を、それを見据えて責任者にする(あるいは、それを盾に自らその地位に就く)のは、非常に卑劣な行為なのではないかと思うわけで、明らかにそいつが悪く、そして当然責任者で、しかしながら吊し上げには似合わなそうな奴というのは、むしろ吊し上げの似合う人間よりも、しっかり罵倒した方が良いんじゃないかとも思ったりする。一番問題なのは、世間一般(?)的に、はりつけにされるのが似合いそうにないが、その実は、非常に強靭な精神力と野心をもった奴が責任者になっている時で、それを見抜いた者は容赦なく批判するのだが、世間一般の大多数の人間から反感を買うのは、その批判した者になってしまう。そして、弱者の皮を被った強靭な精神の紛い者は、妙な感情論で守られてしまう。

 まあ、弱っちい妖怪であるところの私は、罵倒はしっかりされるのだろうが、いかんせん弱っちいので、身体か精神かいずれかがあっという間にぽっきり折れて、怒る側は、怒りの矛先を失い、結果誰も幸せにならずに終わるだろう。ゆえに、なるべく責任者というポジションは避け、日陰で生きるのが世の為であろう。

腹を割って話した

腹を割って話した