饅頭本当に怖くない?

 いじめの手法について優劣をつける意味があるのかと考える。実際、「1対1であれば、まだマシ」や「無視や陰口は暴力よりも悪質」といった意見を述べる者は少なくない。確かに、その通りだと判断できるような事例は存在するだろう。しかし、何を不快と感じるかには当然個人差があり、場合によってはいじめられていることに気づかない可能性だってある。また、先述の例のような優劣が一般的に広まってしまえば、いわゆる「マシ」とされるいじめの被害に遭っている者が、それゆえに救いを得にくくなり、結果的に最悪の事態を招くことも考えられる。

 こういった「不快の基準も千差万別」という点や、それによって引き起こされ得る事態を想像もできない人間が、個々の事案に優劣をつけているのを見ると、きっとこいつは自分の気づかぬうちに人を傷つけまくっているのだろうとさえ思ってしまう。

 もちろん、実際に気づかず人を傷つけていたからといって、「いじめは良くない」という意見そのものが否定されるわけではないし、個々の事案に優劣が存在するかどうかは別としても、いじめと呼ばれる行為がしっかり罰せられ、それに伴って減少していくのを邪魔しようなどと考えたりはしない。だが、「いじめは良くない」と公言する者が(告白済の場合は除くとしても)加害側だった経験が一度もないのかどうかは気になり、可能なら徹底的に調査してみたいとさえ思う私は間違っても性格の良い人間でないことは確かで、それゆえか単純にいじめの加害者だった者と同等か、場合によってはそれ以上の嫌悪感を「いじめは良くないと考えている人間だと思われたいだけの人間」に対して感じてしまうのだが、これもまた「不快の基準も千差万別」の一例ではあるだろう。もっとも、支持や共感を得にくい例でもあるだろうが。