いいパンやいいコイはあったが、いい子なんていなかった

 今日も「完結した今、改めて『聲の形』を読み直して感じたり、考えたりしたことを綴ろう」の回を更新しようと思って準備もしておいたのだが、ついさきほどまで『相棒』の今シーズン最終話「ダークナイト」を鑑賞していたせいで、用意していた内容とは別の視点で一から書き直たい衝動に駆られているのだが、本日も残り1時間ほどなので、それは諦めます。

 というわけで、今回は「将也は、元々“良い子”だったのか?」というような話などを軽く。


 まあ、何をもって「良い子」とするかにもよるし、小学生時代、硝子に対してあれだけのことをしておいて何が「良い子」だと思わなくもない。しかし、何度も述べている通り、私は「反省するいじめっ子」なんてものは、ファンタジーな存在だと思っているが、学級裁判時に母親の姿を頭に浮かべたこと等を考慮せずとも(こういった描写は、元来将也は良い子だったのではないかと考える人達がその根拠として挙げている点である)、後に反省し得た時点で、情状酌量の余地なしのド屑というわけではないであろうということは頷ける。

 もっとも、最終回における主要登場人物たちが、島田等を除けば「和解」しているらしいことをもって「結局みんな良い子だったのか」とする意見には頷けない。反省すべき点を反省した、あるいは色々と背負い抱え込んだうえで、嫌い合っていた者同士が新たな関係性を築き上げたからといって、過去の罪が無しになるわけでもない。

 いずれにしても、将也が「悪者」あるいは「更生はしたが元は悪者」と捉えるのもまた、短絡的な気がする。むしろ、本質的には「良い子」だったと考えても間違いではなさそうな将也が「いじめる側」に廻ってしまい得たことの恐ろしさ。この点が「いじめを描いた漫画」としての『聲の形』の重要なポイントだと思う。これは、差別する者は、あからさまな「悪人」ではなく、すぐ隣の一見善良な「普通の人」であることと似ている。

 さて、そんな将也の、ある種の「再生/再起」の物語であると言えそうな『聲の形』であるが、「将也を恨んではいない」「いじめの加害者である将也に惚れる」という、たしかに「いじめっこに都合の良いいじめられっこ」と捉えられそうな硝子が相手でありながら(ある意味で将也はとても「恵まれた状況」にある)、将也がどん底から這い上がるのに、あれほど苦労したのはなぜかを考えるのが、その設定をただ批判的に捉えることよりも重要なのではないかと思う。


聲の形(1) (講談社コミックス)

聲の形(1) (講談社コミックス)

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