『この西瓜ころがし野郎』(完)

 サトリの妻と少女による「舞い戻りの舞」は陽が沈み、やがてまた陽が現れる頃まで続き、舞い終えた頃にはサトリの妻も少女も取り囲んでいた者もすべて憑き物が落ちたようにつやつやした表情となり、つづいて眺めていた者たちの中からすぐに美しく「舞い戻りの舞」を舞う者が現れ、他の者はそれを囲み、代わる代わる延々と続けられること数十年、その間も西瓜ころがしは生かされつつも西瓜たちの憎しみを受け続け、すっかり西瓜ころがしなのか西瓜汁の塊なのかわからぬ姿になり、桔梗の牧師が清めの水をかけた時には既に本当に西瓜汁の塊と化していたようで、綺麗さっぱり洗い流されてしまったのだけれども、もちろん西瓜ころがしのための石碑など建てられるはずもなく、「舞い戻りの舞」だけが舞われ続け、その後のくわしい顛末はさすがに人の寿命しか全うできなかった私には語ることはできず、わかっているのは78年後の大移動といった大きな出来事のみであり、ここにいたってようやく西瓜ころがしの存在も語られることはなくなったようで、ただひたすら「舞い戻りの舞」の美しさだけが語り継がれ、西瓜もそちらの世界のような姿に落ち着き、世界中を跳ねまわっていたなどということは、大昔の人間のおとぎ話だったのではないかとさえ言われる始末、しかしながら西瓜ころがしではないのだから、そのことに腹をたてる西瓜などもうおらず、立派な娘に成長したかつての小鬼が朗らかな顔で西瓜たちに水をやる姿は79年後のこの土地の者の心に確かなゆとりを与え、ある意味では西瓜ころがしのような存在があってこその平穏と言えるのではないかなどと言い出す者が現れそうなものだが、もはや西瓜ころがしのような愚かな者など存在しないのであって、誰もそんなことを口にしたりはしないのだった。